2-6 星の広場とシャンゼリゼ 


初めての外国着陸の日の翌日。
ユースホステルで出会った人たちの中に、
「JISU (日本国際学生連合) のパリ支部に、ロンドン行きの席の確認に行く」
という人がいたので、暇な面々4~5人とくっついていっしょに出かけることにした。

JISUパリ支部は、サンミッシェル通り88番地にある、並木の木陰の小さなオフィス。いろんな情報も教えてくれる。
その人の買ったロンドン行きの切符は、やっぱり学割で12,800円だったって。

用が済むと、陽ざしやさしいサンミッシェル通りを散歩しながら、みんなでルクセンブール公園まで足を延ばしてみた。

その手入れのゆき届いた広大な庭園の一画が最初に目に飛び込んで来た時には、その美しさにただ圧倒されて、口ぱくぱく。
言葉を失うって、こういうことなんだね。

(パリに着いてからはずっと、フランス語がわからないのに関係なく、言葉を失いっぱなしだけど…)

一瞬、パステルカラーの童話の世界に迷い込んだかと思った!

目も覚めるような色とりどりの花々が咲き乱れ、くっきり区分けされたそのパターンと色彩とコントラストの鮮やかなこと!
噴水あり、森あり、並木道あり、そして木々の間には石像がたたずみ…。

ほんと、別世界。
パリにはこんな公園がいくつもあるんだって!


さあ、今度は私のロンドン行き切符を買いにシャンゼリゼ通りの航空会社
へ行く番だ。
地面の下のうす暗い地下鉄の世界を通り抜け、エトワールの駅で降りて、
地上に出るエスカレーターに足をかけて上を見上げたその瞬間、
ぎゃーっ! またまた驚いたの何のってー。(◎皿◎)

ただの道路に出るのだろうと何の心の準備もしていないところへいきなりガーンと目前に現れたのが、荘厳に空に向かってそびえ立つ、巨大な石の凱旋門。
思いがけず恐竜にでもバッタリ遭遇してしまったような、恐怖感さえ伴う感動!

日本の田舎にいると、そんなに大きなものが目に触れてくる機会って、ほと
んど皆無だからね。
あー、びっくらしたぁ。 (゚Д゚;)

見事な彫刻が施された巨大モニュメントのその威容に、

“歴史の重み、ナポレオン全盛時代の威光、そしてフランス人の、戦没者の霊に対する敬虔な思いが、長い間風化に晒されながらも、今なお息づいている“

って、感じたよ。
それはね、きっと門の下に設けられた記念碑に捧げられる生花の山と、一年中、絶えることなく灯されているというかがり火のせいかもしれないね。

広島を思い出したけど、ちょっと違う。
何だかここでは、戦没者は英雄として祭られているような、そんな気がした。
小さな靖国神社が町のまん中にあるようなものなのかな…。


ところで、エトワールは、“星の広場” っていう意味だって。
この凱旋門を中心に、12のアベニューが星の輝くさまのように、四方八方に広がっていて、そのうちのひとつ、なだらかな坂道がコンコルド広場に通じているのが、シャンゼリゼ通りなんだ。

私の空想では、シャンゼリゼって、もっとこじんまりして、たくさんのお店やカフェがごちゃごちゃ並ぶ、石畳かなんかの道だと思ってた。
霧にむせぶガス灯、アンティックの馬車、カフェまわりのアコーディオン弾きのおじさん…。
そういうのって、遠い昔のことなのかなー…?
 
現実は、道路幅約100メートル、舗道幅もそれに負けず広い、交通量の多い大都会の大通りで、お店もカフェもあまり見当たらなくて、オフィス風の立派なビルの方が多い。
それぞれ趣向を凝らして並ぶそんなビルの連続、車道と舗道をしきる街路樹の並木のたたずまいも、それなりに何ともいえないフランス的美観をたたえてはいたけどね…。
 
o(・_・= ・_・)o キョロキョロ








凱旋門と星の広場 (祖父母と弟に送った絵葉書)


星の広場





下に参考資料あり






シャンゼリゼ通りの広さについて、参考になりそうな記事があったので、載せておくね。

「世界で一番おもしろい地図帳」 青春出版社 より


パリの道路がとにかく広いわけは?

1998年、フランスで開催されたサッカーW杯には、パリのシャンゼリゼ通りに100万人近いファンが詰めかけた。

さすがに、世界最大のイベントと言われるW杯。その動員数にも驚くが、100万人もの人をのみ込んだシャンゼリゼ通りの広さにもびっくりしてしまう。

実際、パリの道路は、シャンゼリゼ通りをはじめ、広くて立派なものが多い。それらの大通りは19世紀半ばに計画的に造られたもので、道路を広くした理由は「暴動対策」だった。

当時、皇帝の位についたナポレオン三世は、産業革命が進むなか、パリをフランス帝国の首都にふさわしい町に改造しようと考えた。通りに面した建物の高さやデザインを統一し、放射線道路を造り、公園や広場を増やしたのも、この時のことである。と同時に、道路も広い通りにつくり変えた。

というのも、1789年に起きたフランス革命以来、パリでは市民が何度も暴動を起こしていた。その革命側、市民側の戦法は道路にバリケードを築くことだったので、ナポレオン三世は、見通しのよい広い道路を造れば、バリケードを築くことができなくなり、暴動を防げるに違いないと考えたのである。

目的はともかく、ウィーンやローマをはじめ、世界中の都市計画に大きな影響を与えることになった。






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