3-9 アムリッツァ ~ ニューデリー(インド) 

インドに入国!

インドとパキスタン間にも長い間に渡って国境線を巡る紛争が絶えないんだって。
数年前にもカシミール領有権を巡って何度目かの印・パ戦争がり、国連によって暫定的な停戦ラインが引かれるまでは国交断絶。
パキスタンからインドに入ることはできなかったそうだ。
それについて聞いたことには、また追々触れて行くね。

さて、インドにも現地のオンボロ乗り合いバスで入ったんだけど、国境を越えたあたりはでこぼこの道が真っ直ぐにのびているだけで家は一軒もなくて、
村の道に入ったら、モンスーンの後の道が泥水で溢れていて、バスが船のように水上をプカプカと進んで行ったんだよ。
心配だったー…。
今、この地域は雨季だそうだけど、そのモンスーンの威力はすさまじいものだ。
洪水の被害も大きいと思う。

灌漑とか進んでいないのかなー…。




これ、ふつうの道路。 バスはこの水の中を進んでいる。   汗とか



アムリッツァ

国境に近いアムリッツァは、シーク教(ヒンドゥー教の一派)の総本山の町。
(この町とガンジーにまつわる話は、追記に入れておいたので読んで)

アムリッツァには3日くらいいたかな。
いよいよどっぴろいインドの内陸に向かって進むのだけれど、インドで初めて電車に乗った時はどぎもを抜かれたよ。

駅には人がたくさん住んでいて、やかんやお鍋が置いてあったりする。
(屋根と水道があるから)
電車の窓に鉄格子がはめられている。
物乞いの人たちが、そのバーの間に手を差し出すのだけれど、その手には指がなかったりするんだ。
鉄格子は無賃乗車防止のためだろうけど、電車が走り出せばたくさんの人がいっせいにデッキや屋根に飛び乗る。




インドの電車で、たぶん一等車。 窓に鉄格子が付いている。
(これはまた別の時に撮った写真)




窓アップ。(乗客の方が閉じ込められている側みたい)



駅で降りて通りに出た時も驚いた。
あっという間に物乞いや物売りや、リキシャの客引きに囲まれて、先へ進めない。

洋服がボロボロで裸足で痩せ細った子どもたちに「バクシシ」(何かちょうだい)と真っ黒に汚れた手を差し出された時には、拒否するのは可愛そうと思ったけれど、裕さんに、「相手にしちゃだめ」と言われ、無視するのが大変だった。

そんなことにどぎもを抜かれている場合ではなかった。
道を歩いていたら、橋の欄干の脇や道路脇に、身動きもしない人たちが横たわっているんよ。
横たわっているというか、ゴロゴロ転がっている。
死んでいるのか生きているのか、わからない。

そんな光景を見たら、日本だったら「どうかしましたか」って声をかけるなり、救急車を呼んであげたりしない?(最近はわからないけど)

少なくとも、「自分はこのまま通り過ぎていいんだろうか」って迷うと思うんだ。

でもそこではそういう人たちのそばを、まるで何事もないように、人々が談笑しながら通り過ぎて行く…。

ところが、何日かインドの町にいるうちに、いつのまにか自分もそういう一人になって、平気でそういう人たちのそばを何も感じずに歩いている自分を発見してショックを受けた。

インドでは、命の価値が軽いの?

裕さんに聞いたんだけど、インドでは人口が増え過ぎて、貧しい人たちが特に子だくさんなんだって。
避妊の教育も行き届いてないし、他に楽しみもないから。
それで、政府も頭を悩ませていて、避妊したカップルにはトランジスタラジオとかの景品を贈る政策とかもあるんだって。

そして、インドには階級制度があって、一番階層の低い人たちは、アンタッチャブル(触るのもはばかられるくらい汚ない、不可触賤民という意味)と呼ばれて、人間扱いをされていないのだそうだ。

その人たちは、生まれてから死ぬまで、その身分で過ごして、がんばっても上には上がれないんだって。
一生、まともな仕事には就けなくて、トイレ掃除とか死体の片付けなどの、人が嫌がる仕事を死ぬまでし続けるのだそうだ。
それが前世の罰だから仕方なくて、それから救われるのは、死んでガンジス川の中にあるあの世との分かれ目からあの世に行く時だそう。
だから、インドではお葬式がお祭りのようなんだって。
「やっとこの世の苦しみから解放された。お祝いだー」って。

ほんとかなー…。


ニューデリー



現在のニューデリー駅周辺 (写真:フォトライブラリーより)
当時とほとんど変わっていないみたい。





インドの駅(たぶんニューデリー)のホーム。
柱に貼ってある表示がヒンドゥー語だ。



ニューデリーと聞くと、じゃ、デリーか、オールドデリーがあるのかな、って思うでしょ。

イギリス領時代の1911年、カルカッタからデリーにインドの行政府所在地が移された時に、デリー市街(現オールドデリー)の南方約5kmほどの場所に行政都市として建設されることとなったのだけれど、それがニューデリーの始まりなんだそう。

そして都市計画はイギリス人によって行われたため、道路は整然と配置され、沿道は大きく育った街路樹と庭園の緑に包まれていて、建物もイギリス植民地様式が多くなっている。(ウイキペディア調べ)


ニューデリーで久しぶりにシャワー付きの安ホテルに泊まったんだけどね、
おかしかった。
シャワーのふたつの蛇口に、”ホット” と ”コールド” と英語で書かれていたので、ホットの方をひねったら、お湯が出た。
それで、「あー、やっと文化的な生活ができる」 と思って、コールドの方をひねったけど、なぜかそっちからも熱いお湯が出る。

「あれ、ボイラーが壊れているんかな」 って思ってしまった自分がおかしくて、いつまでも笑っていたよ。

そう、インドには冷たい水なんてなかったんだ。
熱い水しか出ないんだよ。一年中、夏なんだもの!
(なんで気取って、英語の表示なんか付けとくんじゃぁ~っ!!)


その頃、裕さんと私は、もういつも一緒にいた。
(うん、ありがとう。私も一応、ふつうの女の子だし)

朝ね、窓を開けてドキッとしたぁ…。
道路沿いにずら~っと見渡す限り、布にくるまったミイラのようなものが、並んでいたから。
それは、道路をねぐらとしている人たちだったんだよ。

裕さんが言った。
「インドのお金持ちは、日本とは比べ物にならないほど裕福なんだ」

「天国と地獄が同居しているような国だな」
そして、
「いまだに道路の上で生まれて道路の上で死ぬ人がいる国は、インドだ
けだろう」 とも。

そういう風景が日常になっているインド。
人々は本当に、その現実を受け入れているんだろうか。
宗教上の解釈で…?!

この地で生きたマザーテレサとガンジーの思いが、身近なものとして迫って来た。






インド編は、あと8編続くよ。

続きを読む>> に追加資料あり
 




インド・アムリッツァにまつわるガンジーの独立運動の中の一話<イギリス製品の不買運動>

1919年インド北部のアムリッツァで、(イギリス)政府の政策に抗議する1500人以上の無抵抗の市民が銃撃されるという大惨事が起きました。
インドの独立運動は甘く見られ、いっきに押しつぶされる危機にあったのです。
そんな状況の中、ガンジーは新たな反抗の手段を繰り出します。
そのひとつは、イギリス製品に対する不買運動でした。
もともとインドは綿製品の生産地であり、イギリスに輸出をすることで外貨を稼いでいました。
しかし、産業革命によって工場の機械化がいっきに進んだことでイギリスの綿製品の値段は一気に下がり、それまで輸入していたインド製の綿製品を駆逐してしまいます。
それどころか、インドはイギリスにとって巨大な市場と化しています。
しかし、それだけにインドでの不買運動は、イギリス経済にとって大きな打撃となりました。
 ガンジー自身、自ら西洋式の衣類をすべて捨て、すでに過去のものとなりつつあった手動式の糸紡ぎ道具チャルカを使って、インド古来の製法による衣類を作るようになります。
自らの手で作り出したものだけで、質素な生活をすることは時代に逆行するものでした。
しかし、彼はそうしたインド式の生き方が誇り高いものであると、人々に理解させたのです。
(インドの国旗の真ん中には、未だにチャルカが描かれています)

「ポップの世紀Pop Culture of 29th Century」より


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