スポット訪問記 Vol. 20 クラコフとアウシュビッツ 


あのね、「あれっ?」って気がついた人がいるかもしれないけど、今回のために、「スポット観光編」 だったカテゴリーとその中の記事ぜ~んぶを 「スポット訪問記」 って変えちまった。

なぜかというと、後半で書く記事が 「アウシュビッツ」 だから。
「スポット観光編」 とするにはあまりに抵抗があるじゃん。
だからって、ここだけ取り出して「番外編」に入れるのも、今までの流れが途切れてしまいそうだったし… で、

そうしたことで、心おきなく書けたってわけ。

もうよく知られていることとは思うけど、今回は私の目を通して一緒に体験し、感じ、思いを共有してね、心強い読者の皆さま。




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st16.gif

当時はどのくらいかかったのか覚えていないけど、ワルシャワからクラコフまでは現在特急で2時間45分だとか。

クラコフは日本でいうと京都のような町。
年も押し詰まった1979年12月28日に、ワルシャワで出会った日本人数人と、ディジョンから一緒に行ったY君と訪ねました。

チェコスロバキア国境の山道は大雪で、みんなで風邪ひいちゃった。



ワルシャワ人とクラコフ人は仲が悪く、競争心、敵対心を持ち合っています。
ワルシャワは何もないところからの復興に市民が力を合わせているけど、見てきれいな場所はまだ少ない。
クラコフは東欧らしいエキゾチックな美しい都。
どちらの側にもつけませんね。
全く違う二都市でした。

(旅のメモより)




クラコフ絵葉書

クラコフの絵葉書


クラコフたそがれ風景

たそがれのクラコフの町にたたずむ。

やっぱり古都の趣があるね!
いっしょにいるのはわれらが星・K雄さん(ちょっとおちょくってる?)と、ニューフェイスの在ワルシャワ日本人のみなさん。
この二人はパーティーには来れなかったけど、ワルシャワ滞在中に知り合ったんだ。
女性のほうは、S子さんと同じく、ショパンコンクール出場を目指していた。
(きっとここまで来るからには、ピアノの腕はすごよね!
みーんな輝く星だ。私は何星かな… Σ(¬_¬;) )



クラコフたそがれ風景2

古い教会の鐘の音が聞こえて来そう…


クラコフの通り

町の通り。

これが、現地御用達防極寒仕様モコモコオーバー。
もちろんメッチャ荷物になるから、フランスに帰る時、エステラの家に置いてきた。



クラコフ市場絵葉書

クラコフ中央市場絵葉書。
この建物の中は、民芸品屋さんでいっぱい。


K雄さんからの便り


上の文面は、その上のクラコフ中央市場の絵葉書裏。
(クリックすると大きくなって読める)

K雄さんに送った手紙への返事らしく、1980年2月11日付けで書かれていて、イギリスのオックスフォードにいたと思われる(?)私宛てに投函されたもの。
文中に出て来るM君というのは、ワルシャワにいたビジネスマンさん。

実在したK雄さんからもらった貴重なノンフィクション素材なので、ここに載せて記録として保管しておくね。

…つまり察するに、私はこの年の2月にはフランスのディジョン大学のコースを終えて、イギリスに一時、戻っていたか、
手紙を出した頃、その先自分がどこにいるかわからないので、イギリスの住所を連絡先にしておいたのだと思う。
(過去現在が交差して、自分でもいつどこにいたのかよくわからなくなってるけど、きっとそうなんだろう Σ(・。・;) )



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アウシュビッツ強制収容所

アウシュビッツ写真葉書

6000ボルトの有刺鉄線(絵葉書)


アウシュビッツ強制収容所は、クラコフの町から西へ50kmほど行ったところにあった。

その場所のことは歴史の勉強やテレビなどの番組とかで知識としては知っていたけど、そこで実際に見たものはほんとに想像を絶するものだったよ。

思い出すと今でも、「人間はそこまで残酷になれるのか」って絶望的な気持ちになってしまうけど、歴史の中では同じようなことが世界各国で起きたし、今でも起きているんだよね。

その悲惨さから目を背けずしっかりと向き合うことが、少しでも未来の同じような出来事を回避する力として働けば、このような負の遺産もひとすじの光を与えてくれるものと信じて、その時のことを載せるね。

(アウシュビッツは私たちが訪ねたこの1979年に世界遺産に登録された)




アウシュビッツを訪れる機会があろうとは…

とても言葉では言い表せません。

何十畳の部屋いっぱいに人間の髪の毛の山。
女性の髪だけで7トン。
中にはお下げを編んだまま、リボンをつけたままのものも何メートルとうず高く積まれていた。
死体から取ったもの?殺される前に切られたもの?…

ガス室に送られる前は、男も女も子どもも全員裸にされ、ガス室までいっせいに走らされたという。
(その写真まであった)


他の展示室に行くと、今度は広い部屋に入れ歯の山。

また別の部屋に行くと、歯ブラシの山、めがねの枠の山、義足の山、と、数え切れない、天井まで届くほど、気の遠くなるような数。

人間の髪の毛で織ったという毛布や、人間の皮膚の油を採って作ったという石鹸も展示されていた。

いろんな種類の拷問室、銃殺する人々を立たせた死の壁、ガス室、死体焼き場、人体実験の記録…

反抗する者は、どうせ殺されるにしろその前にひどい拷問を受けた。
比較的言うことを聞く者には、処刑者の死体を埋める穴を掘る仕事が与えられ、少しは長く生きられたけど、
結局その人たちもそこに投げ込まれた。
あまりの苦しさに、電気が通った有刺鉄線に自ら身を投じて自殺する人も後を絶たなかったという。


小さな女の子が、凍傷のテストのため、裸足で雪の中に12時間立たされ、写真の中でその足は青く3倍にも膨れ
上がっていた。
(どのくらいで死ぬかという実験だったらしい)

プラスチックや毒物を皮膚に移植された若い女性たちの写真もあった。
(命が助かった人たちも、ずっと後遺症に苦しんだという)

反抗も許されず、ただ言うなりになって虐待され、殺されなければならなかった人々。
何の罪もないのに…


同じ人間が同じ人間にこんなことできるの?
何の権利があって…

世界各国語の説明があったけれど、ドイツ語だけはありませんでした。

(旅のメモより)




アウシュビッツ収容所入口

収容所入口。
頭上に 「働けば自由になれる」 という看板がかけられている。



アウシュビッツ建物


建物は博物館になっていて、没収されたらしい身分証明書が壁いっぱいに所狭しと貼られていた。
その顔はみんな笑顔で、(外国の人たちは、日本と違って身分証明書の写真を撮る時は笑顔にする習慣がある)
どこにもいそうな、すぐ隣にいそうなふつうの人たちだったよ。

収容されてからの証明書はみんな頭をぼうずに刈られ、囚人服を着せられて、これから何をされるのかと悲痛な表情をしているけど、労働力にならない老人・女性・子どもの多くは身分証明書も作られずに即ガス室に送り込まれたという。


ドイツ人は過去の事実を認めて今でも亡命している当事者たちを追い、裁判で裁き、「二度と同じ過ちは起こさない」 と国を上げて意志表明しているところが日本と違う」 って、そこにいたアジアのどこかの国の人が言った一言が、胸に刺さってしまった。

私たち、何もせずに傍観者でいてはいけないんだよね…
何ができるかわからないけど、ちゃんと歴史を勉強して、今の日本の国際的な位置を確かめて、機会があったら本当の平和のために声を上げて、行動に出して行こうね!
大切な日本をもっといい国にして行くために。

まずは選挙に行こう!棄権しないで。
(あなたも私もみーんなが、故国日本の星だよ)



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( ↓ 続きを読む>> に追記あり )


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追記情報  (ウィキペディアより抜粋)

(悲しくなるけど、平和について考えるために読んで)



アウシュビッツ強制収容所 「概要」 より


アウシュビッツ位置ウィキペディア



労働力確保の一方で、労働に適さない女性・子供・老人、さらには劣等民族を処分する「絶滅収容所」としての機能も併せ持つ[2]。

一説には「強制収容所到着直後の選別で、70~75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされており、このため正確な総数の把握は現在にいたってもできていない[3]。

収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらを匿った者など。
その出身国は28に及ぶ

ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)[4]により規模を拡大。
ピーク時の1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。

たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられた。理由として、

ナチスが掲げるアーリア人による理想郷建設における諸問題(ユダヤ人問題など)の解決策が確立されるまで、厳しい労働や懲罰によって社会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは、前段階における解決の一手段として捉えられていたこと。

領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり、個々の労働者の再生産(十分な栄養と休養をとらせるなど)は一切考慮されなかったこと[5]。

1941年末の東部戦線の停滞に端を発した危急の生産体制拡大の必要性と、戦災に見舞われたドイツの戦後復興および壮麗な都市建設計画など、戦中と戦後を見越した需要に対し、膨大な労働力を充てる必要があったことなどが挙げられる。

併せて、劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷懲罰や解放直前に数次にわたって行われた他の収容所への移送の結果、9割以上が命を落としたとされる[6]。




収容所での暮らし 「選別」 より

列車から降ろされ、選別に向かう被収容者たち。
SS、縦じまの囚人服を着たカポ(収容所監視員)、選別を行う医師の姿も見える。(1944)

ドイツ統治下の各地より貨車などで運ばれてきた被収容者は、オシフェンチムの貨車駅(1944年5月以降は第二強制収容所ビルケナウに作られた鉄道引込線終着点)で降ろされ、「収容理由」「思想」「職能」「人種」「宗教」「性別」「健康状態」などの情報をもとに 「労働者」 「人体実験の検体」、そして 「価値なし」 などに分けられた。

価値なしと判断された被収容者はガス室などで処分となる。
その多くが 「女性、子供、老人」 であった
とされる。
ここで言う 「子供」 とは身長120cm以下の者を指すが、学校や孤児院から集団で送られて来ていた子供たちは形式的な審査もなく、引率の教師とともにガス室へ送られた。 



「被収容者」 のリストより

アンネ・フランク
「アンネの日記」の原作者。アウシュヴィッツに2ヵ月間収容される。
再移送先のベルゲン・ベルゼン強制収容所でチフスを患い1945年3月頃
死亡。

ハンナ・ブレイディ
「ハンナのかばん」の主人公。チェコのテレジン強制収容所から実の兄がいるアウシュヴィッツに移送される。
13歳の幼い少女は労働力とは認められず、1944年頃処刑された。




かつて日本人はシベリアにとり残されたポーランドの孤児765人を救済
  した。その縁でポーランド人は親日家が多いという。


  ポーランド魂とやまと心」 元ポーランド大使兵藤長雄さんの講演


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Comments

拝見いたしました

美弥さんアウシュビッツ強制収容所の跡地へ行かれたのですね!凄いね、以前、映画と本でも読みましたが、鳥肌が立ち背筋が寒くなった事を今、改めて思い出しましたよ~。広島平和記念館に入館した時にも同じでしたよ!人間は時間がたつと日常の生活に追われ忘れがちですが、戦争や紛争のない平和な世界を望みますね!世界は一つ!高校の時に弁論大会で世界平和を話した事を思い出し・・・若かったな~と思います。若い時の情熱を今一度もちたいです。若者に期待していますがね!本当に各地でも選挙もありますので清き1票を皆さん「日本の星だ」ですね!

Re: 拝見いたしました

ハッピーさんへ
本当にその通りですね。知って辛くなることがたくさんありますが、何ができるんだろうって考えるとわかりません。でも、まず知らなければ。そうすれば何かの時に、できることから始められると思います。選挙も小さな意思表示ですよね。

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