スポット訪問記 Vol.19 ワルシャワ市内へ 


ポーランドは貧しい国でした。
ソ連の援助を受けながらソ連を嫌っています。
食べ物もふだんはじゃがいもばかり。
いいところでソーセージ2切れ。
肉や魚はなかなか市場に出ず、出ても行列に並んで待ってやっと。
言論の自由もなく、ストライキや学生運動をすれば警察が武力で弾圧。
テレビではいかにも労働者や学生が悪かったようにニュースで伝えるそう…
マイナス30℃、冷凍室よりも低い温度の中、石炭がなく吐く息も凍り吸う息も肺を痛めたポーランドの冬。

(旅のメモより)



ポーランドが民主化されたのは、1990年。
この記事はその10年前の、ワルシャワの町の様子だよ。



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st17.gif 

 
ショパンの心臓

ポーランドで有名な人っていえばショパン、キュリー夫人、コペルニクス、
それに元ローマ法皇のヨハネ・パウロ二世だね。
フレデリック・ショパン(1810-1849)はほとんどピアノ曲だけしか作らなかったことから、”ピアノの詩人” と呼ばれている。

1830年10月に一時的別れのつもりで ”告別演奏会” を開き、11月2日にワルシャワを発ったのだけれど、激動的な時代の波に飲み込まれ、結核を発病し39才の若さで異国で亡くなっショパンは、この後二度と祖国・ポーランドの地を踏むことはできなかった。

彼の望郷の思いは強く、自分の遺体を運ぶのは無理としても、心臓だけでも故国ポーランドに帰してほしいって遺言を残したんだって。
それで彼の心臓はポーランドへ運ばれ、ワルシャワのクラコフ郊外通りの聖十字教会の柱に埋め込まれたんだそうだ。

数々の中のいずれかの戦争の時、「ワルシャワが攻撃されるからショパンの心臓を他に移しなさい」って敵のドイツ兵将校がこっそり教えてくれて、そのおかげでショパンの心臓は無事だったんだって。
”戦場のピアニスト” もそうだけど、戦争という不合理な出来事の中でも世界中に敵・味方を越えた人間ドラマはあって、感動するよね。




メインストリート

ワルシャワ中心街

クリスマスにしては飾りつけも質素で暗く、人通りもまばら。



ワルシャワ大学

ワルシャワ大学で

エステラとキャンパスで。(寒そう!)
エステラのお母さんが貸してくれた毛糸の帽子に毛皮のコート。
(あったかそう!)

エステラはフランスのディジョン大学 (現在のブルゴーニュ大学)で私と一緒にフランス語を勉強していたけど、もともとはワルシャワ大学の学生だったんだ。




ワルシャワパレス (文化科学宮殿)

ワルシャワパレス

後ろに見えるのが、スターリンからワルシャワ市民への贈り物として、スターリンによって押し付け建てられたワルシャワ名物のワルシャワパレス(文化科学宮殿)。
醜いと市民に嫌われている。

高さ234m、ワルシャワ一高い37階建の巨大なコンクリート製の建物なので、不幸なことに市内のどこからも見える。

(内部にはテレビ局や科学博物館、劇場、コンサートホール、映画館、水泳プール、オフィス等いろいろな施設があるらしけど、現在は市民ももう慣れたというかあきらめて、昔よりは親しみの度合いを増してはいるという説も…)



ワルシャワ市民の間で語られるジョークにこんなのがある。

「ワルシャワで一番美しい景色は?」
「ワルシャワパレスの展望台からの眺めだよ。
その景色にゃ、ワルシャワパレスが入っていないからさ」
(;・∀・)



↓ ウィキペディア 「文化科学宮殿」 の中の「ワルシャワと文化科学宮殿」より抜粋

ワルシャワ市街のランドマークとして、文化科学宮殿は当初から論争の的となった。
ワルシャワ市民を始めとするポーランド国民は、文化科学宮殿をソビエト支配の象徴であると考え、この建築を嫌悪した。
社会主義体制崩壊の現在に至るも、このような否定的な見方は存在しており、ポーランド人の中には、政治的見解に関係なく、文化科学宮殿がワルシャワの伝統的な景観を損ねているとして批判する人々が存在する。


(結局現代でもやっぱり嫌われてるのか…困ったモンだね、壊すわけにもいかないし。
スターリンさんの存在誇示のおもわく面からは、成功ってわけだ…)




旧市街地

思い出に残っているのが、エステラに市街地に連れて行ってもらった時のこと。
薄暗い街路灯の灯りの中に浮かび上がる石畳の広場 (電気はソ連からもらっていたのでふんだんにはないらしい) 道に並ぶ市場の店々、広場を行き交う馬車と人々…。
ほんとに中世の旧市街に足を踏み入れたような感じだったよ。


ワルシャワ旧市街地市場FL

ワルシャワ旧市街地市場 (写真:フォトライブラリーより)
クリスマス前後はもっとお店が出て、もっと人がいた。



現在ワルシャワ北部にある旧市街(1611年のワルシャワ遷都より前に作られた歴史的市街地)とその北隣りの「新市街」(1611年のワルシャワ遷都以後に作られた歴史的市街地)は、大戦後生き残った市民によって絵画や写真などの記録から ”壁のひび一本に至るまで” 忠実に再現されたものなんだって。

戦いに次ぐ戦いで90%が破壊されたというワルシャワの町を、どんなに手間や時間がかかっても元通りに復元させたいっていう市民のひたむきな願いと努力に胸を打たれた。

この旧市街と新市街とクラコフ郊外通り、新世界通り、そしてワルシャワ市内に点在する複数の宮殿群を含む ”ワルシャワ歴史地区” は1980年、私が行ったこの年に、ユネスコの世界遺産に登録されたんだよ。




ワジャンキ公園

175万平方キロの広さを持つワジェンキ公園は、ヨーロッパで最も美しい公園のひとつと言われている。


ショパンの像アップ

これ、ワジャンキ公園にあるショパンの像。
しだれ柳の下に、ショパンが座っている。

春になるとこの中にしまってあるピアノが出され、野外コンサートが開かれる。
公園の中には宮殿や野外劇場もある。 

その宮殿は最後のポーランド王が建てたものだけど、ロシアに売られ、第二次世界大戦中には美術品のほとんどをナチスドイツに持ち去られ、その後、放火によって内部が焼失したんだそう。
(踏んだり蹴ったりだね)

その宮殿も、ワルシャワ市民が復元したのかな。


ショパンの像

真冬だったので全部はまわってみなかったけど、春には今は空っぽの花壇にも花が咲き揃って、さぞきれいなんだろうね。




滑る鳥たち2

傑作写真 題名: ありゃりゃりゃりゃー?!

公園内の池の氷の上を滑っている鳥たち。
泳げないので不思議がっている。




ニケの像

像

ニケは、ギリシャ神話の 「勝利の女神」 で、左手を高くかざし、右手に剣を振りかざしている。

剣の矛先は、ドイツに向かっているそう。

”戦う” といっても侵略のためではなく、”侵略された祖国の町を取り返すため、守るため” 戦ったワルシャワ市民の誇りが強く感じられる。



ニケの像が見える広場

国立劇場の入り口あたりから、ニケの像をバックに



国立劇場

劇場外観

ショパンコンクールもワルシャワ音楽祭、もここで開かれる。


劇場の外で

コンクリートの壁がツギハギだらけだった。(柱をよく見て)
中身は世界でも一流だけど。



国立歌劇場とニケの像(絵葉書)

より近代の、もっといい季節の国立劇場とニケの像の絵葉書

(当時の貧しい時代と違って、たぶんその後、ツギハギだらけの建物は修復されたと思う)




バレー公演2

その内部。バレー公演。

バレー公演1

文化的な活動には政府も国民の参加を奨励、力を入れていて、入場券は日本円で70円だった。



無名戦士の墓

戦士の慰霊碑


戦士の慰霊碑2

サスキ公園内にある。
時代が変わっても、自由のために戦って果てて行った人たちをいつまでも覚えておこうという市民の心が、追悼の火を絶やさない。




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謎の言語環境

ポーランド切手2


”エクスプレス”(特急・速達)は、英語では e の上のチョンを取って最後に s をもうひとつ加える。
フランス語はそっくり同じだよ。
(え?ひょっとしてこれ、ポーランド語でなくフランス語? だとしたら、なんでフランス語なのよぉ~っ?? ポーランド語にしてはあまりにフランス語とそっくりじゃない?! どなたか教えて!)

なんだかよくわかんないけど、
さすが、ヨーロッパ人同士は、言語が違ってもこれだけ似てるんだから、他の国の言語もすぐにマスターできるはずだよね。



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ゴメン…  (またかいな d001

予定ではクラコフ他編もこの回にいっしょに載せるするつもりだったんだけど、ワルシャワ市内編を書いているうちにまたまた長くなっちゃっいました。
なので、急ぐ旅でもないことだし(その時の私は永遠にそこにいる)、クラコフ他は、また次回にさせてもらいます。

(モコモコ着ぐるみ風安物化繊オーバー着用写真、なかなか出て来ないよね… コリラックマ



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(↓すぐ下の 続きを読む>> に追記あり)


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追記

この時のことで特記したいことは、この年(1980年)お髭のあの顔が忘れられないワレサさんが社会主義国で初めて実現した自主管理労組「連帯」を結成し、その議長となったこと。
彼は一般市民に支持されていて、連日彼の言動がニュースで取り上げられていた。


彼は、労働者ながらもカリスマ的指導者として、1980年代初頭に卓越した戦術で体制と真っ向から戦い、「反共の闘士」と呼ばれていた。
その翌年の81年には来日もしている。

1982年10月9日、民主化を求める労働者の戦いに対し、ハンガリー動乱、プラハの春のようにソ連に武力で弾圧されることを恐れたポーランド政府は、自ら戒厳令をひき「連帯」を禁止する。
ワレサさんはこの戒厳令時代には監獄に入れられ、軟禁状態となりながらも信念を貫き通した。
この功績が認められ1983年ノーベル平和賞を受賞している。

この活動が共産党一党支配体制を崩壊させる原動力となり、1989年に
は新生ポーランドの初代大統領に選出された。


(大統領になってからもその気性から議会などでしょっちゅう衝突してあ
まりスムーズには行かなかったみたいだけど)



ワルシャワ蜂起については、アンジェイ・ワイダ監督 ”「地下水道” やロマン・ポランスキー監督 ”戦場のピアニスト” に描かれている。



なお、ポーランドの情報をインターネットで調べていて、この方のHPを  見つけ、とてもよく書かれているので、ワレサ議長についての部分を一部引用させていただきました。(上の紺字部分)ワレサ議長については続きもありますし、この方のサイトに皆さんもぜひお邪魔させていただいて下さい。
    ↓
中欧旅行記-ポーランド(POLAND)

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