スポット訪問記 Vol.18 ワルシャワで人々を訪ねるの巻 


1979年にフランスのカーン大学とディジョン大学でフランス語を勉強してその合い間の夏休みにパリでアルバイトをしたことは、第2章の”パリで泣く” の巻で書いたよね?
その時、エステラというポーランド人の同級生といっしょに、夏休みの留守の間だけという契約で日本人学生のパリのアパートをまた借りして住んだことも。

その年の冬休み、エステラがフランスへの留学を終え故国に帰国する際に誘われて、私もワルシャワまでついて行っちゃったんよ。
(もう一人、日本人の同級生の男の子もついて来たけど)

真冬のワルシャワは凄まじかった。気温も、生活物資の乏しさも。
そんな中で、私たちが行くからって歓迎の準備をしてくれたエステラとそのご両親には、思い出すと今でも胸が熱くなるほどの歓待を受けた。

その時の様子をこれから話すね。

もちろん昔のことだから、現在の観光情報にはならないよ。
でも、その時しか見れなかったその時代の顔やら、今行っても絶対に経験できないようなこととかも生き生きと絵葉書やスクラップブック調のアルバムに書いてあるので、
その時の感じを伝えるためにそれもそのまま載せてたりもしてみるね。
写真の中では確かにそして永遠に私はそこにいるので、その世界に入り込んで一緒にいるつもりで、見たこと聞いた事を楽しんでくださいな。



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まず、1980年1月3日に、ワルシャワから日本の家族に出した絵葉書とその文面。
(脚色なし、現地での生レポートそのまま。読みやすいようにスペースは入れとくね)



ワルシャワからの絵葉書文面


(最初のスペースに「命がけ」って後から足した一言が入れてある。
ちょっとおもしろがっておどけてる感じで…)



命がけ 連日のふぶきに閉じ込められています。
窓は氷でふちどられ、マイナス20度以下… 北部をおおっている寒波が今夜南下し、ワルシャワも零下30゜ 大雪にまたみまわれるであろうとポーランド語をしゃべるニュースが伝えたばかり… パリに行く(帰る)電車はありません。

とにかく去年の12月31日にパリを出たモスクワ行きが3日かかってもまだワルシャワに着かないのだそうですから… 
交通は完全にマヒ…国内でも6時間~15時間の電車の立ち往生もざら…

クラコフからふつうなら4時間のところ12時間かかって翌日の夜あけにワルシャワ郊外に着いた電車が動かず、マイナス20℃の雪の中(冷蔵庫の冷凍室もマイナス15℃ですって?)、歩いて町までたどりついたの。

ほほも、鼻、のど、はいの中まで冷えた空気で痛くて 足は身体を支えられないほどもう無感覚… 
覚悟していつ着くかわからないパリ行きの汽車にそのうち乗りますが、持ち込む食料も物資不足で買えないし、この寒さの中、国に石炭が不足していて、暖房きいてないんです。
1月いっぱい授業見逃しになるかな…
郵便もふだんでさえ15日はかかるといいます。
このハガキと本人とどちらが先に無事に かのフランス国はディジョンの町に(帰り)着けるでしょうか?!合掌…

(全く調子が変わる、上部の書き足し部分)
お正月も結構豪勢にやっています。
今日はワルシャワ大学日本語学科教授(東大助教授さん)のお宅で、おぞうに、ちらしずし、あわびのつくだに、お手製塩辛、カレーライス、おしるこ、日本酒(特級ハクツル)ごちそうに!



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そういうわけなんだ。
ポーランドに着いたのはいいけど、連日すごい寒さでね、この年は気象の記録から見ても特別な年だったみたい。

エステラの家は石炭をどうにか手に入れたみたいだけど、他のワルシャワ在住日本人ビジネスマンのアパートへ行ったら暖房なしで、吹雪がビュービューゴゥゴゥと唸り声を上げて窓枠やガラス戸を揺らす家の中で、オーバーにくるまってみんなでこごえて過ごした。

外を歩くのは自殺行為で、それでも用事で外出しなければならない時は、強いポーランド人の男たちはポケットにウオッカの瓶を入れて出て、それをストレートであおりながら冷凍庫のような外気の中を歩くんだって。
だからウオッカはポーランドの特産なんだそうだ。(ほんとかな)

お正月に書いた絵葉書の文面をそのまま載せたので話が前後しちゃうけど、クリスマスのあとにワルシャワからクラコフへ小旅行に出かけ、ワルシャワに戻って来た日の外歩きはすごい体験だった。
絵葉書に書いてある通り、吹雪で一寸先も見えない中、頬はチクチク痛いし、息をするたびに鼻と口の中の息の通る道をヒリヒリ痛めながら、
駅の手前数キロ地点で止まってしてしまった電車を降りて雪に埋まった線路の上を歩いたんだよ。
鼻水も白い息もその場で凍って、鼻と口のまわりにへばり付いてさ、鼻水をすすると鼻の奥で ガリッていう音がするんだよ。
本当だってば。鼻水が瞬間冷凍された音だよ。

エステラと彼女の両親は、私たちが訪ねるためにいろいろ用意してくれた。
そのひとつはクリスマスのごちそうの準備なので、特に私たちが行かなくてもやったことかもしれないけど、材料を買うためにその寒さの中、交替でお店の前の行列に並んだって。

みんなは想像できないだろうけど、この頃はソ連にもポーランドにも、物が不足していて、
食料品屋さんに行ってもほとんどの棚がからっぽで、缶詰や瓶詰め製品が申し訳程度に置いてあるだけだった。

肉やソーセージはほとんど手に入らず、「あの店にある」って情報があるとすぐに行列して何日も並ぶのが当たり前なんだって。
エステラの両親も鯉を買うために3日、ハムを買うために2日並んだのだそう。
(ポーランドには、クリスマスに鯉を食べる習慣がある)

ワルシャワでは牛乳、砂糖などの必需品は配給制だった。
(小麦粉とかもそうかもしれないけど、見たのは牛乳と砂糖チケット)もちろん国民の最低限度の生活を保障するためだろうけど、きっと買い占めとかを防ぐためもあるんだね。
だって品薄なんだから、自由に売ればお金のある人がみんな買いしめちゃうでしょ。

エステラの家族がしてくれたことその2は、
”ワルシャワに住んでいる日本人を、自宅のクリスマスパーティーに呼ぶこと”
そんなに物資が乏しい中でよ。




クリスマスの飾りつけ

エステラの家(アパート)の居間


飾りつけ

みんなで、クリスマスツリーの飾りつけをしているところ。


Y君とK君

右がディジョンからいっしょについて来た、ポーランドに一年住んでいたことがあるというY君



お母さん

エステラのお父さん(左)と、そのむこうにお鍋を覗き込むお母さん。

ポーランドでは夫婦揃って働くのが当たり前。
国のために労働するのだ。
二人で働いて一か月の収入が日本円換算で5,600円だって。
(日本の大卒初任給が110,000円の頃)




全員集合

写真を撮ったY君以外が全員、テーブルに揃いました。
右からエステラの両親、エステラ、私、ワルシャワ在住のビジネスマン、留学生のK雄さんとS子さん。

K雄さんは東大の露文科の学生で、国から給付金をもらってワルシャワ大学に留学している超優秀、超将来有望な祖国の星的存在だ。
(今はどうなっているんだろ?きっと偉い人になっているんだろうね!)

「ポーランドは物価が安いから、日本から送ってくるお金、何倍にもなっちゃうでしょ?」
って聞いたら、
「いえいえ、給付金はこちらの物価に合わせてこの国のお金で給付されるので、ポーランド人と同じ生活ですよ」
だって。
え? じゃ、1か月何千円とかで暮らしてるんだ?

S子さんは、世界最高とも言われている ”ショパンコンクール” に出るために、コンクール開催地のワルシャワに音楽留学中。


私が描いたK雄さんの似顔絵

私が描いたK雄さんの似顔絵 (ウヒャ きゃー!





エステラのいとこの家

エステラの親戚の家にも呼ばれて行ったんだけど、その頃のワルシャワの一般家庭の内部がどんなふうかわかるので、紹介するね。
日本のふつうのアパートの中と似ていない?



エステラのいとこ

エステラのいとこと。


タクシーを待つ

これは絵葉書に書いてあるように、お正月にワルシャワ大学で教えていらっしゃるO教授のお宅へお呼ばれに行くところ。(ラッキー!!)

バスは走っていなかったのでタクシーで行こうとしたけど、タクシーはライフライン物資を運ぶのに総動員されてしまったとかで、待てども待てどもぜーんぜん来なくて、いつ来るかもわからなかった。
のんびり待つしかなかったっちゃ。
(そんでも約束の時間があったので、結局歩いて行った)

ちなみに薄いオーバーコートを着て行った私はやむにやまれず、エステラに連れて行ってもらった市場でモコモコオーバーを買ってしまいました。
『フランスに持って帰っても、これは要らないなあ』って思いながら。
(もちろん化繊の安物だけど、命を守るためだ)



訂正:
ごめん。一度はこの写真のオーバーがその買ったオーバーだって書いちゃったんだけどね、
『それにしてはこの写真のオーバーは素敵すぎるような…』 と思って写真を整理していたら、これはエステラのお母さんから借りた本物の毛皮のコートだったことを思い出しました!

というわけでその ”にせものモコモコ毛皮オーバー” は次号記事の中での披露となります。
まるでだるまさんみたいで、やっぱり本物とは大違いだったワ。
(´Д⊂グスン

でもこの国ではファッションよりも防寒目的生活必需品的要素が大きいわけだし、物価全体が安いから、本物の毛皮のコートも破格の安さだと思う。
私は全然趣味じゃないけど、この寒さだったらほしくなる気持ちわかるような気がするなぁ。




教授宅

教授の宿舎の一室
(え?日本じゃないの?! なぜか扇風機があって謎だ…)




石炭を運ぶ馬車

石炭を運ぶ馬車が町なかを走る。


極寒のワルシャワで過ごした、あったかい年末年始のお話でした。



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来週号ではワルシャワの町を少しだけ紹介したあと、上の絵葉書文面に出てくる、日本の京都のようなクラコフという町に行った時のことと、それからもう一か所、どうしても行きたかった場所のことを書くね。
(どこだかわかるよね… ここまで来たらやっぱり行くでしょう?)

じゃ、また来週!


(↓追記もあり)


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追記情報

侵略、分割、弾圧、破壊などを繰り返された歴史の中で、ワルシャワ市民は何度も立ち上がって戦い続けて来たんだなあ… と思いました。


ワルシャワの歴史 抜粋(ウィキペディアより)

1795年の第三次ポーランド分割でプロイセン領に組み込まれた。
1807年、プロイセンを征服したフランスのナポレオンが、ティルジット条約によってワルシャワ公国を建てるが、ナポレオン失脚にともなうウィーン会議で、多くのワルシャワ公国の地域はポーランド王国(ポーランド立憲王国)とすることが確認され、ロシア皇帝アレクサンドル1世がポーランド国王の座につくことになった。

独立を喪失してから、ワルシャワは幾度となく民族運動の中心地となった。
1830年には、フランス七月革命の影響もあり、十一月蜂起(ワルシャワ蜂起)が起こったが、翌年までに無惨に鎮圧された。

1815年に成立したポーランド王国(ポーランド立憲王国)では、自由主義的な憲法が規定されていたが、その多くはこれを機に形骸化された。

1860年代前半にも民族運動が高揚し(一月蜂起)、一時はワルシャワにポーランド人の臨時政府も成立したが、再びロシアによって鎮圧された。
当時のロシア皇帝は開明的なアレクサンドル2世であったが、この事件を受けてポーランドに対してはロシアへの同化政策を図るようになる。

ポーランドが独立を取り戻したのち、ワルシャワは再びポーランドの首都と定められた。
しかし、1939年にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻、政府は降伏を余儀なくされ、ワルシャワはナチス・ドイツの占領下におかれた。
市内居住のユダヤ人はワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人居住区)へ集められ、1942年の移送と1943年4月19日に親衛隊少将ユルゲン・シュトロープによるゲットー解体で、国内の絶滅収容所に送られた(→ワルシャワ・ゲットー
蜂起)。

1944年8月1日、占領軍に対しワルシャワ市民が一斉蜂起(ワルシャワ蜂起)を起こしたが63日間にわたる戦闘の末鎮圧され、殆どの建物が破壊されてしまった。


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Comments

美弥さん凄い経験されましたね~極寒経験日本に居て「のほほん」と生活していれば絶対に経験出来ない事ですよね!食料の配給制度、切符発行、物不足・・・寒さは私も2回経験しました、1度は中国南京で15年前です。50年ぶりの寒さだと言ってましたよ。列車に暖房が無く新聞紙を前と背中に入れても寒く震えてました事と遊びで2004年3月にカナダ、イエローナイフへオーロラを見に行った時です、-30度でシャボン玉も凍り、バナナで釘を打ったり、雪の結晶が衣服についても溶けない、今までの最低はー40度だったそうですよ!すごく乾燥していましたよ!ほんとに、はく息が凍り、鼻の中まで凍って痛かったですよ!支度は毛皮の防具と靴も皮でしたから身体は寒くはありませんでしたが、オーロラは毎日見れましたよ、感動でした、機会があれば又行きたい所です。

Re: タイトルなし

ハッピーさんへ
いつも興味深いコメントをありがとうございます。
ポーランドで零下30℃だったこの時は、モスクワでは零下40℃だったと聞きました。
人間、よく生きていられますよね!
オーロラは命あるうちに一度は見てみたいです。

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