番外編 1. 亮介兄さんのその後 (前編・若い頃) 

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(後半が西表島の目も醒めるような美しい風景を背景にした、亮介兄さんが主人公の詩とアルバムになっています。
前半は文字が多いけど後半への序章なので、忍耐強~く読んで後半へ辿り着いて下さいね)



亮介兄さんは帰国してからも就職とかはせずに、
若者たちが都会へ出て行ってしまったあとほとんどお年寄りだけになってしまったり、そのまま廃村になってしまった村で、
藁葺き屋根の空き家などを借りて、作物を作って、自給自足の生活をしていた。
ある時は仲間たちと、ある時は一人で。

ひとつの場所に留まらず、収穫期にそんな仲間たちのコミューン(集合体)を手伝いながら、日本全国あちこちを旅して回っていたこともある。
日本中にそんな、同じような考えや生活スタイルを持つ友だちがいるって、素敵だと思ったよ。

兄さんは、インドにとても惹かれていた。
それは仏教が生まれた国ということもあったけれど、“キリストは19才から30才までインドで修行していた”という説に共鳴したせいもある。
それを聞いた時には私は 「まさか」って思った。
常識人間だもの (ハ?)

でも、数年前に「イエスの失われた十七年」(立風書房)という本の紹介を新聞の書籍欄で見つけて、読んで見たいと思った。
そういう内容らしかったから。
(それっきりまだ読んでませ~ん。(;・∀・) 日々の雑用に忙しくて)


確かに聖書でも、イエス・キリストの足跡は13才くらいまでで途切れ、
その後30才くらいで突然現れて人々に布教(?真理を説くこと?)を始めるようだけど、その間どこで何をしていたかについては歴史的にも謎が多いらしい。

史上最大の「ミッシングリング」といわれている=リングが欠けている。謎を解いて行くとその部分がつながって環になる)

それに、イエス・キリストが生まれた時に東の国から3人の博士がお祝いに来たという話はみんな知っていることだと思うけど、
その“東の国”ってどこだか考えたことある?
インドだとすると、納得できない?

仏教は2500年前、イエス・キリストが生まれたのは2000年前だから、仏教の方が古い。
イエス・キリストがあれだけの覚醒に至るまでどこで勉強し修行したのか。
インドだったって考えれば、私は納得できる気がする。
そして嬉しくなったりも。
(だって私は深いことはよくわからないけど、仏教って日本人の心にピッタリ来ると思うし、漫画の“ブッダ”も好きだし、良寛さんも好き)

使う言葉は違っても、“同じことを言っているんじゃないか”ってことが、仏教とキリスト教の教えの中には多々ある。
イエスもブッダもその時代、その環境にいる人たちに合わせてわかりやすい言葉や表現を使ったんだろうって、兄さんが。
たとえば“覚醒”とか“悟り”の代わりに、“いつも目を覚ましていなさい”
とか、“無”とか“空”の状態を、“心の貧しい人は幸いである”と表現したり。
伝えようとしたことは、同じじゃないかって。

これは兄さんから聞いた、私の言葉足らずの受け売りだけど、私は兄さんの言っていることや求めていること、生き方が、なんかわかる気がしたんだ。

兄さんは、初めてのインドはそういうこともあって行った。
それも、ほとんど何も持たず。

「聖書に“明日のことを思いわずらうな。野の花、野の鳥を見よ。蒔くことも刈ることもせず、明日、炉に投げ入れられるかもしれない彼らでさえ、神は養って下さっている。うまして愛をいっぱいかけた人間を心に留めておられないはずがあろううか”って書いてあるだろう?
“求めよ、さらば与えられん”とも。
僕はだから、明日のことは思い煩わず、ブッダやキリストが見ようとしたものを探しに、大元のインドに行って来る。
もし聖書に書いてあることが本当なら、何も持っていなくても、何を食べようかと思い煩わなくても、それで生きて行けるはず。
僕はそれを、証明するよ。」

家族にそう言って、ほんとに行ってしまったんだって。
祖父母はクリスチャンだったから、何も言えなかったらしい。
(ユカイユカイ!)

インドでは、お寺で葉っぱのお皿を持って並ぶと、修行者に食べ物を施してくれるそう。
兄さんはそうして、ほとんどいつも余分なものは何も持たずに何度もインドへ行って、いろんな素晴らしいグル(師)に巡り会っている。

アメリカの山中で、ヒッピーたちと生活していたこともある。
その時は、“日本人の若いブッダがいる” と、ふもとの町からタクシーで話を聞きに来た人たちもいたそう。

(これは仲間が教えてくれた。本人はそう呼ばれることはとんでもないと思っていたし、嫌だった。ついでに、そのお客さまたちって、若いアメリカ人の女の子たちだったらしい。おっと
ちぇ

当時はヒッピーとか自然に帰れとか、禅とかが若者の心を掴んでいたこともあるけど、
兄さんはそういう一時のスタイルとしてでなく、その後もずっとそういう生き方を貫いているんだ。
だからって、hお酒も飲まない、たばこも吸わない聖人君子になろうとなんて全然してなくて、たばこもお酒も大好きだし、ガールフレンドだっていたよ。
同じ空気を持った人(たち)だったけど。

“こうでなくてはいけない”とかこだわったり、“きれいと汚い”“幸せと不幸”とか分けるのがよくないんだ、とも言っていた。
そうするから争いが起こるし、“幸せ”という概念を持つから“不幸”って概念も生まれる。

世界は愛に溢れた“全体”で、“ひとつ”なんだって。
(??だけど、わかるような気がする。雨が降って土の中のみみずがおしっこをして、それが肥料になって草花の栄養になり、川は流れて命を育み、海に行って蒸発してまた空に戻る。人間も自分で生まれて自分で生きるわけじゃない。その環の中の一部だろう)

だから、食卓に出されたものはお酒でも肉でも、何でも感謝していただいていた。




亮にいと仲間たち

山村で自給自足の生活をしていた頃の亮介兄さん(後ろまん中)と仲間たちの写真。みんないい顔をしている。



ある時なんて、山深くて郵便屋さんも2週間に一度しか行かない過疎の村の入口付近に小さな土地を借りて、丸太で自分で家を建てて一人で住んでいたよ。(私はそこに、訪ねて行った)

読みたい本を読んだり瞑想や座禅をしたりしているから、全然退屈じゃないどころかとても充実した毎日なんだって言っていた。
自然に溶け込んで、自然の一部になっているような感じで、家の脇を流れる清流にイワナがいて、兄さんはちょっとした怪我なら薬草で治していた。

「ミヤ、見てごらん。山から熊が下りて来て木の幹を掻きむしって剥いでも、しばらくすると表面が盛り上がって来て、いつのまにか元に戻っている。
自然の力はすごいよ。
人間の病気や怪我だって、自然に治る力はあるはず。副作用のある薬なんか使わなくても」

とか言っちゃって。

でも、雪深い冬はさすがに「お前、死ぬぞ」って友だちが迎えに行ったらしい。

兄さんは特定の宗教に関係なく、物や世間一般の価値観に振り回されることなく、ブッダやキリストが伝えようとしたことを、目も耳も体も、今生きている存在全部を傾けて、自分なりに掴もうとしていたんだと思う。
(これは私の表現で、合っているかわからないけど)

兄さんは、理屈や知識や思考が邪魔だって言っていた。
それは、英語に訳された禅の紹介の本にも書いてあったな。

「早く真理を教えてくれ」という弟子に師が言うの。
「あなたのカップは “自分” でいっぱいだ。
そのカップを空にしなければ、私はそこに何も入れられないでしょう」
って。

フルートのたとえ話もあったな。
フルートは中が空だから、神様(宇宙)の息吹が通って美しい音色を奏でるんだって。

“私、私” を捨てて無になりなさい ってことだよね、きっと。
その、“無” っていうのも何なのか、よくわからないことだけど。


このアルバムは、そんな背景の中で私が最初にインドから帰って兄さんと実家で再会した時にもらった写真を、兄さんと別れた後で眺めて、
思うがままに、メモ書きみたいなノリで作って残しておいたもの。
だから、表現が幼くても言葉足らずでも、その時の私の感性あるがままで、ブログ記事に転写して行くね。

人にはいろんな生き方があって、それぞれが違うからいいんだよね。
どっちがいいとかどういうのがいいとかでなく。
私は亮介兄さんみたいな生き方もいいと思うけど、同じにはなれないし。

亮介兄さんを登場させたので、その後についてもお話しなくちゃと思い、
今日はこんな形で紹介します。
彼の世界をのぞいてみて下さい。

じゃ、アルバムスタートするね。



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(1976年初秋版)


日本国へ  - インドから帰国 


インドからの帰国便



実家

故郷のわが家は、変わらぬたたずまい(今はもうないの)



沖縄から帰った兄さん

あーっ これは誰だ!? 私の兄(亮介)です。 
(さわやか系の少年だったのに、すっかり日焼けして逞しく…)

アメリカで平和行進に参加するための資金を稼ぎに、沖縄の西表島へ、さとうきび刈りのアルバイトに行って来たって。



沖縄の 西表島 (いりおもてじま)


西表島海岸と花

西表島の空と海と海岸と花 むこうにいるのは兄さんの友だち


西表島おじさん

さとうきび畑のおじさん



亮にい1

これが、私の兄です


海岸を歩く



自然、生活、瞑想… 仏教の経典、般若心経、聖書、インドのグル(師)の著書をいつも片手に やさしい目

自然にとけ込む
自分をからっぽにするときフルートは
神、宇宙のエネルギー、愛を身体いっぱいに受け、
通して、
美しい音楽を奏でる

からっぽのフルートにこそ、
神の息吹きはふきこまれて 
響く




西表島海岸



無… 空(くう)…  それは祝福  
それが出発


それはすでに、あなたの中にある
あなたが、それに気づかないだけ
あなたはすでに、ブッダ(覚醒者)なのだ




西表島さとうきび畑



あるがままに自然に
ゆったりと生きなさい

空の鳥のように 野の花のように
今を精一杯生きなさい


明日のことを思いわずらわず 
あくせくせず 
宇宙と融合して




亮にい10



波の音 風の音 青い空

ビコーズ  
レットイットビー  
アクロス ザ ユニバース




亮にい7



あなたの知らないところで 
あなたの中を 
あなたの生命は流れている

ボブディラン


いつも目を覚ましていなさい   

イエス・キリスト


何も持っていなければ 失うものは何もない   

ボブ ディラン




亮にい6



毎日毎日が全く新しい
新しい生命が満ちあふれている
瞬間 瞬間を 完璧にトータルに燃焼している


何も、明日のことなど気にしていない
人間だけが、ムリをして思いわずらっている
自分以上のものになろうとして… もっともっと物がほしくて…
壁にぶちあたり、川をさかのぼろうとしている




亮にい8



よく見てごらん
壁に体当たりしなくても ドアや窓が見えてくるから

ゆったり水面に浮かんでごらん
川は流れ、あなたを自然に大海につれていってくれる

空も海も山も 川も鳥も草も
みんな宇宙の一枝 
そしてあなたも 全体の中の一部
同じ生命のリズムにのって

人生は祝福 カーニバル!




亮にい12
 
澄んだ水に さんごしょう 
目もさめるほど蒼い熱帯魚


亮にい

↑クリックして拡大すると見えるよ 青い魚たち




19才~21才までヨーロッパを放浪した後、インドの師の元へ“答”を探しに。
そして今、アメリカへ、自給自足の農場をつくりに。

仲間たちは多い。

今の時代に何が必要かって、“生きる力”(文明の利器に頼らずに)だって。
彼らは畑を耕し、みそ、しょうゆも作り、自分たちの手で家を建て、子供を産み育て、ヨガや瞑想や禅の精神に沿った日々を送っている。

自然と一体化した生活の中で。

仲間たちの目 みんなきれいでした。
がんばって。

彼は今、大自然の中で生き抜くため、その法則を学ぶため、アメリカレッドインディアンたちの中で生活しているそうです。




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さてこんな兄さんが、それじゃ中高年になった今はどうしているのか、続きは、

亮介兄さんのその後 (後編・現在編)

としてお送りします。
ノンフィクションなので、こういう生き方を貫いている人が現実社会の中で生活して行けているのか、興味のある方はお楽しみに。

(↓続きを読む>> に追記あり)

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前回 (スポット観光編Vol.13 北米西海岸線の旅(後編))と今回、アメリカのインディアンの話が出て来たので、それに関することを書くね。


この後1980年に兄さんはアメリカで、” ロングウォーク ” という運動に参加して、アメリカインディアンたちと一緒にアリゾナ ~ ワシントンDC、そしてそこからさらにニューヨークまで 6000km の道のりを半年かけて歩いた。

自然を敬い、その上に築いて来た伝統を重んじて、アメリカ大陸にもともと住んでいたのはインディアンたちだった。

(この”インディアン”という呼び名自体おかしいんだよね、だって、“インディアン”て、”インド人”て意味。
コロンブスが最初にアメリカ大陸を発見(?)した時、そこをインド諸島の一部と勘違いしたから、そこに住んでいた人たちに”インディアン”て名前を付けたんだよね。
それがそのまま彼らの呼び名になっているなんて!
実際、自動翻訳ではアメリカのインディアンの記事が“インド人”て訳されていた)

彼らが後から来た人たちやアメリカ政府により不当な扱いを受け続けていた歴史的事実は数え上げればキリがないほどだと推察するけど、

そんな中、この”ロングウォーク” を含むいくつかの ”歩く抵抗運動”は、早く言えば、”インディアンたちの一揆” だったらしい。

アメリカインディアンたちは、”リザベーション”(保留地) と呼ばれる狭い土地に押し込められ、今度はそこから石炭が出るとわかったらそこからも追い出され、何百キロと荒野を歩いて移動させられたり、作物も育たない不毛の地へ強制移住させられたりしていた。

アメリカ政府はインディアンとの間で交わした約束も、自分たちの都合で何度も破って来たという。 (それについての詳しい記事を下記にウィキペデイアから抜粋しておいたので、また時間のある時に見て

歴史はさかのぼるけど、インディアンの間で ”この土地に手をつけてはいけない” と伝説で伝えられていた”ビッグマウンテン” をアメリカ政府は掘り、そこから出たウラニウムを使って広島・長崎に原爆を落としたんだそうだ。

私は、インディアンたちは領地がどうのどっちが善だ悪だとか言っているのではなくて、「そっとしておいてほしい」って言っているだけのような気がするんだけど… どうしてそうしてあげられないのかな…



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ウィキペディアよりの抜粋


映画や歴史の勉強で部分的には知っていることだけど、これを機会に少しだけでもインディアンたちの受けてきた悲しみの歴史を改めて知ろうよ。


インディアン絶滅政策 [編集]

19世紀になると、「インディアン強制移住法」を制定したアンドリュー・ジャクソン大統領によって、「保留地制度に基づく強制移住に従わないインディアン部族は絶滅させる」とする「インディアン絶滅政策」が推し進められた。これはユリシーズ・グラント大統領や、ウィリアム・シャーマン将軍らによって更に強化され、民族虐殺の戦火はさらに西部へと拡大した。南東部での「セミノール戦争」は、白人とインディアンの国家間戦争としては最大級のもので、ジャクソンはこの戦いに焦土作戦による徹底殲滅を図った。「セミノール戦争」は現在、「インディアンのベトナム戦争」と呼ばれている。


強制移住 [編集]

チェロキー族の涙の旅路 [編集]
長い間各国政府は法律を定め、狭い保留地にインディアンを押し込めて合法を装った。なかでも有名なものに1838年10月から1839年3月にかけてのチェロキー族の強制移住がある。 これはインディアンの領地で金鉱が見つかり地価が暴騰し、それに目をつけた(後述の法制定時の)大統領アンドリュー・ジャクソンが「インディアン強制移住法」を定め、アメリカ南東部に住んでいたチェロキー族とセミノール族、チョクトー族、クリーク族をインディアン準州(現在のオクラホマ州のオザーク高原近く)に移動させたというものである。

厳しい冬の時期を陸路で、しかも多くの者は徒歩で1,000kmもの旅をさせられたために1万2,000人のうち8,000人以上が死亡した。のちにインディアンの間では、この悲惨な事件を「涙の旅路(Trail Of Tears)」と呼ぶようになった。



ナバホ族の涙の旅路 [編集]
1862年、キット・カーソンによる殲滅戦に降伏したナバホ族も、300マイル(約483km)以上離れたボスケ・レドンド(Bosque Redondo)という灼熱不毛の地に徒歩で強制移住させられた。 険しいサングレ・デ・クリスト山脈を越え、ニューメキシコ州をほぼ完全に横断するかたちのこの旅路は「ロング・ウォーク」と呼ばれる。彼らはそこで農耕を強制されたが、やせた砂漠の土地での農耕は不可能であった。

バルボンシート酋長の粘り強い異議申し立てで、1868年、部族は元の地に帰ることを許されたが、この例外事の理由として、ナバホの土地が、白人にとって当時は価値のない砂漠であったことが幸いした。この往復路で女・子供・老人を含めた数百人のナバホの民が死んだ。故郷には戻ったものの、そこにはすでに近隣のホピ族が住み着いてしまっており、ナバホ語での地名は失われてしまった。また、現在も続くナバホとホピの土地紛争の原因となっている。



クレイジー・ホースとジェロニモ [編集]
インディアンはアメリカ政府との間で、一方的な条約に署名させられ、さらに政府側が一方的にそれを破ることの繰り返しとなる。インディアンの中にはレッド・クラウドやスポッテッド・テイルのように連邦政府の側について、抵抗するインディアンを非難する者もあった。こうした状況の中で、決して条約に署名しなかったラコタ族のクレイジー・ホース(Crazy Horse)、開拓者を震え上がらせたアパッチ族のジェロニモらの抵抗は一定の戦果をあげたものの、結局は米国陸軍の兵力によって屈服させられた。20世紀後半にクレイジー・ホースは非インディアンから再評価され、サウスダコタ州ブラックヒルズに世界最大級の石像クレイジー・ホース記念碑が建設中であるが、伝統派からは猛反発を受けている。


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