3-6 ヘラート ~ カブール(アフガニスタン) 


やっと気づいてくれた!

野次馬と、日本人仲間たちが駆けつける。
ぼんやりした視界の中に、私を囲んで心配そうに覗き込む人々の顔が見える。

その中でも一番近くにあったのが、裕さんの顔。
私のおでこに手を当てたり、脈を確かめたりする。
「すごい熱だ」
ぜーんぜん、取り乱していないみたいよ…。
(実は必死に冷静を装っていた)

お腹がメチャクチャ痛くて、体を折り曲げる。
そして裕さんに支えられてトイレに…
下痢なんだけど、最後は粘液性のドローッとした水。

ベッドに戻ると、宿の主人のお父さんで、ヨレヨレの服にヨレヨレのターバン
を巻いたおじいちゃんが涙を溜めて、両手を胸の前で合わせては、
片方の手で天を指して、何かブツブツ言っている。
「私は神に祈るよ、あなたを助けて」 って、ジェスチャーで伝えようとしてい
るみたい。

純さんが水で濡らしたタオルのようなものを持って来ておでこに乗せてくれ
たけど、すぐに生温くなった。
誰かが 「マラリヤじゃないか」 って言っているそう。

近くに病院はないので、裕さんが、道案内役の宿の息子さんと一緒に隣の
町(村)までお医者さんを呼びに行ってくれることになった。
夜道を何キロも走って。
お医者さんは人力車に乗って来たけど、裕さんと宿の息子さんは帰り道も
走って来たって。

診断は、”水に当ったのだろう” とのこと。
私はすぐに人力車に乗って裕さんに付き添われてそのお医者さんの病院
に運ばれて、一日入院したんだよ。

その病院は、何だか祈祷師の館みたいな気がしてしまった。
そこで薬草のような薬をもらって安静にしていたら、だいぶ楽になった。

裕さんは私のベッドの脇で寝て、トイレにも連れて行ってくれたよ。


退院して戻った時、宿のみんなが喜んでくれたその顔やしぐさが忘れられ
ない。

まだ微熱があって、私は中庭の木陰にベッドごと移されて体を休めていた
んだけどね。
裕さんが遠くの水汲み場まで桶で水を汲みに行って、その水を私のベッド
のまわりに撒いてくれたり(水打ちだね、少しでも涼しくなるように)、額の濡
れタオルを交換してくれたりしたんよ。

わかる?
子どもの時、病気になって嬉しかったことない?
私、裕さんにこんなふうにされて、幸せだったかも。

だから、その時ベッドの上から眺めた中庭の風景が私にとっては忘れられ
ない風景なんよ。

カラカラに乾いた土に強い日差しが照りつけて、日向と日陰のコントラストが
まぶしくて、瞼が痛くなるほどなんだけど、
日陰にいる私には、そこがとてつもなく居心地のいい場所だった。

飲み水は、裕さんが私のために長い時間沸騰させてくれた。

後で聞いたんだけど、裕さんは私の前ではさらりとしていたけど、仲間内で
はそれはそれは私のことを心配してくれていたって。

私たち、口に出しては言わなかったけど、いい雰囲気になっている。
お互いへの想いが寄り添って来たっていうか…。

裕さんを筆頭に、ヒゲさんも純さんもね、いつも私を特別扱いせず、そっけな
かったけど、今回は、頭を寄せ合って相談し、
「3人でお金を出し合って、飛行機で美弥ちゃんを日本へ帰そう」
って意見がまとまっていたんだって。

おかげで私は、一週間後にはすっかり回復した。

「女の子だからって特別扱いはしないでいい」って言っていたのに、結局やっ
ぱり体力面で、みんなによけいな迷惑をかけることになっちゃった。
でも、「これからも足手まといになっちゃうかもしれないけど、気をつけるから
よろしく頼むよー」 って旅の続行を願う。
もうすっかり家族みたいになっていたから、「仕方ないなあ」って、仲間でい
ることを承諾してもらう。



アフガニスタン・バスの旅

 東方観光局地図
アフガニスタン地図5

北東部から中央部にかけては、標高約7500mの山岳地帯
(バーミヤンは2500m、カブールは盆地で1800m)



<タリバンの町>
       
そんなこんなで長逗留したヘラートを後にして、インド方面に向かってヘラ
ートを発ったよ。
ここで出会った皆さん、本当にいろいろありがとう。
(平和だったヘラートの町やそこに暮らす人々の情景は、今はすっかり様変
わりしてしまったかもしれないこともあり、二度と帰らぬ歴史の一ページとし
て生涯私の中に生き続ける)

ヘラートから、アフガニスタンの首都、カブールまでは直線で横切れば近道
なんだけど、真ん中の砂漠山岳地帯は危険だと聞いたので、
私たちは遠回りでも大きな町へバスを乗り継ぎながら南回りでパキスタンへ
抜けるルートを取った。
現に、案内人を雇いジープをレンタルして中央部を横切ろうとした旅行者が、
10キロくらい行った地点で強盗に身包み剥がれ、命からがら戻って来たと
いう話を聞いた。


(その時通った南部の町、カンダハルは、タリバン発祥の町。
最初は数人の小さなグループだったって)


何度も書くけど、外は一面40℃~50℃の超乾燥砂漠。
あまりの暑さに風景は歪んでゆらゆら揺れ、時々砂蛇が砂の表面に波型で
蛇行模様を作ったりしている。



<砂漠のトイレ>

トイレの時は、乗客の要望でバスは砂漠の道で止まってくれる。

トイレの施設なんて全然ないけど、これだけ乾燥しているのでおしっこもウン
チもすぐにカラカラに乾いてしまい、うじ虫やハエが湧く心配は全くないのだ
という。
それから、砂漠には、”ふんころがし”って、ウンコが大好物の虫がいて、
ウンコ(ウンチは少し湿り気がある感じで、ウンコは乾いたイメージ?)を見
つけると、ころころ転がして行って砂の中に埋めて食べるんだって!
だから、ふんころがしさんたちが、砂漠の浄化をしてくれているんだ。

ところで、知ってた?
中近東やインドの男性って、おしっこもしゃがんでするんだよ。
だから、ホテルやレストランの洋式トイレにも、便器の上に乗っかってしゃが
んでやった跡がある。
つまり、便座の上に履物の跡が残っているんだ。

あ、大事なこと書くの忘れるところだった。
中近東やインドでは、紙は使わないよ。
ホースや水入れがあって、洗うんだ。(ずっと清潔だし、気持ちいい)
砂漠ではどうするのかって?
水がないので仕方なく、私は紙や布キレで間に合わせた。(?!?)



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アフガニスタン女性

チャドル着用の現地女性たち
右のトラックには、TOYOTA の文字が…



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<バスと停留所>

都会から離れるほど、ターバンを巻いている男性の割合が増える。
種族や宗派によって、ターバンは巻き方が違うらしい。

女性の乗客はあまりいなかったし、いてもチャドル着用&男性の家族と
いっしょで、ひとりで移動している人はいなかった。

バスはオンボロで外側はところどころ塗装が剥げ、錆がいっぱい。
中は、カーテンは汚れ+鼻をかんだあとがいっぱいあり、座席の横のビニ
ールシートも痰だらけだった。
(きっとこちらの人は、ティッシュとかハンカチを持ち歩かないんだね)

そのせいか、座席の隅には必ず痰壷代わりの空き缶が置いてあった。
(「カーテンに吐き出さないでこちらへ」って意味だと思う)

これだけの暑さなのに、まだ冷蔵庫はここらあたりではほとんど普及してな
いんだよ。
停留所で売っている、中身の量がまちまちのコーラだって、水か氷で冷やし
てるだけ。
そのお店も、床は土で布で3方を覆っただけのスペースで、雑貨に混じって
メロンやスイカを並べていることもあった。

都会でもそうだったけど、人気のアイスクリーム機は手動式。
まあるい洗面器のような容器に氷を入れて、何かの乳とたぶん卵の入った
生地入りのボールをその中に置いて、まわりを棒でぐるぐる、ぐるぐるかき
混ぜる。
年取ったおじさんが、そばにひっついている孫とおしゃべりしながらね。
めちゃ時間かかるけど、お客さんはじっと待つ。
それがね、この世のものとは思えないほど美味だった。
こってりコクがあって乳の風味が豊かで、文明国の、薄めて添加物だらけの
アイスクリームとは大違い。

停留所は食堂や村の集会所のような所なので、そういうところで夜を明かす
こともあったね。
運転手が 「朝、クラクションを鳴らして起こすからね」 って言うんだ。
あたりにホテルなんてもんはなく、男性乗客は食堂の床や外の木の下で、
女性乗客は、やっと熱波の収まった外気を取り込むために晴れて窓を開けて、
バスの中で寝る。

前回も書いたけど、夜になっても昼間の余熱で座席も手すり棒もいつまで
も熱かったし、乾いた鼻水の汚れだらけの壁に触らないように丸まって寝る
から、まるで手足をこごめてオーブンで丸焼きにされてる子豚かロブスター
みたいな感じ。
書くまでもなく、もちろん昼も夜もエアコンなんてなしだよ。



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砂漠のオアシス

砂漠の中にこんなオアシスが突然現れることもあるんだよ。


アフガンオアシス

バスの休憩地点で撮った風景。
この布の袋の中には、商売で売るための小鳥が入っていると
いうことだった。



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<割礼>

ある町に停車した時、集会所でお祭りをしていた。
会場の隅に、金銀他カラフルな装飾で飾り立てられた、日本のお祭の
御神輿(おみこし)のようなものがあってね、中の豪華な台座の上に9才
くらいの男の子が座っているんだ。
割礼の儀式だって!


割礼って知ってる?

昔の日本にも元服っていう儀式があったけど、あれは16才になった男子が
ちょんまげを結ったんだっけ?
七五三の五才のお祝いよりも、きっと元服の方が精神的には割礼の儀式に
は近いんだろうね、“男の子が大人の男性と認められる” お祝いだから。

割礼について、聞いたことをやさしく説明してみるね。

男の子のおちんちんの先っぽは、大人になるまでは皮を被っていて、大人
になるとそれが自然に剥ける(??)んだけど、割礼というのはその皮の一
部にメスを入れて、いつも剥けた状態にしてしまう儀式なんだって。
(ゴメンね、医学談話だと思って聞いて)

でも、大人になっても皮を被ったまま(包茎?= 男性としての生殖機能が果
せない?)の人もいるので、それを避けるためと、
それにこの地域は暑いために、不潔になると皮と皮膚の間にアカや汚れが
溜まって病気になりやすくなるので、それを防ぐための風習でもあるとか。

「痛みに立ち向かって克服する」 ということによって、精神的に大人の男性
になる自覚を持たせる意味もあるんだろうね。

その良し悪しについてはわからないでど、私はみんなに祝福されているその
男の子の、ものすごーく嬉しそうで恥ずかしそうで、それでいて、大人になっ
たという自覚からくるのか、どこそこりりしい表情が、”人生の素敵な場面に
立ち会った思い出” として、いつまでも心に残っている。

お金持ちじゃないとそんなお祝いはしてもらえないだろうから、きっとその男
の子も、大人になったら何人も奥さんを持つんだろうね!



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3-7 カブール(アフガニスタン) 

<首都カブール>

カブールはアフガニスタンの首都。
ここでも数日過ごす。

カブールは標高ヒンドゥークシュ山脈の合間の、標高1800mの盆地
にある国内最大の都市。
3000年以上の歴史を持ち、古くから”文明の十字路”と呼ばれて来た、
アフガニスタンの経済的・文化的中心地。
ネパールのカトマンズと並んで ”ヒッピーの聖地” とも言われているそう。

私たちも、ヒッピーがよく集まるという中心地の ”チキンストリート” によく
行っては、たむろしたり、これから行くインド方面の情報を集めたりした。







カブールチキンストリート

旅行者が集まるチキンストリート
(中心地の繁華街は爆撃で破壊されたが、その後、新しいショッピング
センターができたらしい)






<悲しみの肖像-バーミヤン>

私の心に鮮明に残り、今も痛みなしでは思い出せない地。
ウイキペディアの説明も交えて、伝えたいことを書いてみるね。



アフガニスタン絵葉書



カブールの北西240キロ、バスで9時間。
ヒンドゥークシュ山脈山中、標高2500mの高地に位置するバーミヤン
は、砂漠のオアシスとして知られた緑豊かな小さな渓谷。

1300年前(632年)、長安からこの地を訪れた三蔵法師は、大唐西遊
記に、「麦はあるが、花や果は少なく、牧畜に適し、羊や馬が多い」って
書いているって。

渓谷の小高い丘、ゴルゴラは、13世紀、ジンギスカンによって復讐の殺
戮が行われた ”嘆きの丘” と呼ばれ、丘全体がそのまま廃墟として残さ
れている。

昼と夜の温度差が30℃あり、一年の半分は冬で、その冬の間は毎日雪
で、青空はめったになく、学校も3か月休みだって。

バーミヤンの石仏については、皆さんご存知だと思う。



バーミヤンの石仏(絵葉書)

バーミヤン 西の大仏 (当時・絵葉書)


三蔵法師も 「黄金に輝く大仏」 と記したように、当時大仏は金色に彩ら
れ、東西の大仏の頭を囲む天井と壁には太陽神スーリヤやギリシャのア
テネ神、菩薩や天女などが、極彩色で、ギリシャ・インド・イラン・中国の
混合的な表現で描かれていた。

大仏横の岩山トンネルから大仏の頭上に行ける天井にも色彩の美しい
壁画が残っていて、それらはインドとペルシャ美術の融合だという。

私たちが行った時には、高さ55mの西の大仏の顔はすでに、偶像崇拝
を禁じるイスラム教徒によって剥ぎ取られていて、絵葉書のような姿だっ
た。

この後、1999年1月、タリバンにより大仏の顔が吹き飛ばされ、胴体と
右足に砲撃を受け、2001年3月には完全に破壊され、現在はわずかに
大仏の右肩の一部を残すだけとなった。

一緒に破壊された高さ38mの東の大仏はね、衣にギシリャ彫刻のような
風にそよぐようになめらかな線の衣紋があったんだよ。
大仏の本体は自然の岩山から掘り出したんだけど、衣紋は綱と泥土を固
めて作られたそうで、綱の固定に差し込んだ杭の跡が残っていた。

仏像も壁画も僧の住居も、大変な手をかけて仏教徒により作られたもの
だったんだ。

2002年春、ユネスコ日本信託基金設立。
修復と保存に日本政府が70万ドルを拠出した。

2003年、世界遺産と同時に、世界危機遺産に登録される。

現在は80年以降の内戦により、周囲には地雷がたくさん埋まっていると
いう。

こうして修復の努力はされてはいるんだけど、破壊されてしまったものは
もう二度と元には戻らないだろうし、素晴らしい遺跡がこんな悲惨な状態
になってしまったことに胸が痛む。

でも、本当に心配しなくてはいけないのは遺跡よりも、今そこに生きてい
る人たちのことだよね。
それについての関連記事を 「追記」に入れておいたので、そちらも読んで
いっしょに考えて。





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スポット訪問記 Vol. 12 これはどこの島でしょう? 

皆さん、こんにちは。
いつも読んでくれてありがとう。

最近、「第3章 中近東諸国 インド」 を書き始めて、物語の中では私、
今、アフガニスタンの山岳地帯を旅しているでしょう?
その頃の平和だったアフガニスタンと現在のアフガニスタンを想うと、
胸が痛んでしまって…。
日常生活にも影響しちゃってるんよ。
暗~く悲しくなってしまう。
きっと皆さんも同じでしょう。

それで今回は、そちらの続きは休んで、スポット観光編をひとつ入れ
て、美しい島を紹介することにしました。

どこの国のどこの島か、すぐにわかる人もいると思うけど、知らない人
は、どこだろうって想像してみて。
そういうのも楽しいと思うんだ。

最後に種明かしがしてあるからね!




細長い島の南端にある、19世紀の
イギリスをそっくり再現したような美しい町




エンプレスホテル2

その町の、美しく格式高い エンプレスホテル。 
(エンプレスって、エンペラーの女性形、つまり ”女帝”)


ドレスコードがあるので、ジーパンやサンダル履きでは
入れてもらえません。
ここで一応レディーの仲間入りをして、”ハイ ティー” と
呼ばれるアフタヌーン ティーをいただきました。



パンフより

そのホテルの前を、二階建てバスが通っています。 
(でも、ここはイギリスじゃないんだよー。
下に ”リトル イングランド” って書いてある)



カフェより二階建てバス

(上の2枚は、その時持っていた観光パンフレットの切り抜き)



Vi絵葉書3

ここは島なので、港もある (絵葉書)


そこでは夏休みに子どもたちが楽器の演奏をしてお小遣いを稼いでいた。
(楽器のケースに聴衆がお金を投げ入れる)

いいよね、おおらかで。 日本ではできる?



子供たちの演奏

ロック系


お小遣い稼ぎ

ジャズ系


Vi7.jpg

クラッシック系 (バイオリン)



島の民家

町の建物も、ビクトリア時代調



ところでこれ、何の建物だと思う?


V7.jpg
(絵葉書)


夜になると、3000個の電球でライトアップされる。

V1イリュミ

お伽の国の舞踏会が開かれるお城じゃないよ。 美術館でもないよ。
(観光パンフ切り抜き)



Vi9_20090310165841.jpg

それがね、議事堂なんだよ!! (絵葉書)



Vi10.jpg

島だから灯台もあって…  (絵葉書)


Vi8.jpg

沖にホエール ウオッチング クルーズ にも行ける。
これは、”オルカ” と呼ばれるシャチ。 (絵葉書)

5月~10月にかけて、この町の沖に100頭近く現れるそう。

 


この町の郊外にある、びっくりしちゃう庭園紹介


BG絵葉書
(絵葉書)


ファンタスティックな庭でしょう?

ここは広大な庭園の一部、サンカン ガーデン(沈没した庭って意味)。
ところで、この庭園全体の敷地面積は、130エカー=20ヘクタール=22万
平方メートル= 約 67,000坪

数字ではよくわからないんだけど、ハンパな広さじゃないよね。
その広さの庭園いっぱいに、四季折々の花が咲き乱れているんだよ。
何でも、2週間おきに花を植え替えるということだった。

どんなところなのか、そうしてこんなに広い敷地が全部花園になっているのか、
聞きたくない?

それはまず、この庭園の花々の写真を数枚楽しんでから、最後に謎解きしてね。



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上の大きな写真は絵葉書で、これは私が実際に撮った写真



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BG57.jpg   BG67_20090310151053.jpg

    (左右は違う種類の花)


BG21.jpg


BG37f.jpg



BG郵便箱?     BG何してるの






左の箱、何だかよくわかんないの。 側面には ”地球” と ”郵便” って文字
があるけど、ポストに見える? 上に何か置いてあるし、ふたは開くし…。
ゴミ箱は、別のデザインの木箱であるんだヨ (右の写真)。

あ、そういう名前の新聞の販売機かもね!
The Blobe には地球という意味の他に ”世界” という意味もあるし、
Mail には、”郵便” の他に ”新聞” て意味もあるから。


右は何をしているところだと思う?
カメラのフィルムを交換する場所だって。時代もん。




BG59.jpg

こんな噴水もあって…

BG50.jpg

変化をつけて踊っている



BG55.jpg


BG26.jpg  BG35.jpg  

  おみやげ屋さんもお茶飲み場所も、
  花でいっぱい。
  (え? 私も花に見えるって??)





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 そしてなんと 


BG日本庭園入口

ここには日本庭園まであるんだ。
華麗な庭園なのに、ちゃんと本格的なわび・さびが出ている。



BG日本庭園絵葉書

これはほんの一場面で、絵葉書。(右の塔が何だかよくわからないけど…)


他にも世界の国の名前のついた庭もあり、バラ園もありで、とても写真には
収め切れないので、皆さんもぜひ実際に行って楽しんで。


↓ どこの島か、答は、”続きを読む” (追記)に。




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3-8 カブール(アフガニスタン) ~ ラワルピンディ(パキスタン) 


今日はね、アフガニスタンのカブールからパキスタンのラワルピンディまで行くよ。



パキスタン地図

東方観光局 パキスタン地図



命がけの国境越え


カブールから、パキスタンのペシャワールまでの道は砂漠と険しい山岳地帯。
国境の町ジャララバードまでは乗り合いバスで8時間ほどだけれど、その途中の山岳地帯は、道が険しいのと、昔から強盗殺人が多いことで有名なところ。

(この頃は、たとえ崖が崩れても昔ながらの強盗は出ても、まだタリバンはいなかった。
現在はこのあたりで急に武装グループに停車を命じられることもあるそうで、数年前に4人のジャーナリストが殺されたのもこの区間だという)




アフガニスタン周辺地形図2

地形図を、集英社 イミダス2000 別冊付録 2000年ワールド・アトラス
(2000年1月1日発行)からお借りしました。



カイバル峠

そしてその先の、パキスタンへ抜けるために通るカイバル峠の険しさは、歴史的にも有名。
アレキサンダー大王もジンギスカンもイギリス軍も、ここを通るのに難儀したって。 三蔵法師もここを越えたんだよね。

写真を見て。
岩は落ちて来るそうだし、道路にはガードレールもない。
すれ違うの、ハラハラだよ!



                        ↓ここも道路
カイバル峠

                      ↑この白い部分が道路

(現在は戦乱で荒廃し、不通になっているらしい)


パキスタンの国境

アフパキ国境

すっごーく時間がかかったけど、気長に待つ。
やっぱり検査官が、ワイロ集めのために時間を引き延ばすためと聞く。
 


裕さんが言うには、アフガニスタンとパキスタン国境地帯にはたくさんの部族が住んでいるんだけど、国境線は、インド領の独立運動の際にイギリスによって西欧的な視点で勝手に引かれたものだという。 

そしてパキスタンとインドの国境もそうして決められたので、いまだ領地を巡る紛争が絶えないのだそう。 




逞しい顔

日焼けしてすっかり逞しくなっている私。(これならさらわれない)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

いっとき地理・歴史

ところで、パキスタンて、小柄で短足の恐竜が歩いている姿を横から見たような形してない? しっぽもちゃんと付いていて。
今回の旅は、恐竜の肩まわりをなぞって行くみたいな旅。



PakistanTribal.png

トライバルエリア地図 (ウイキペディアより)


トライバルエリア

パキスタンには何とも変わった地域があるんだ。
それは、トライバルエリアと呼ばれる、パキスタンのどの州にも属さず、パキスタンの法律も及ばない辺境の地(つまり無法地帯)で、そこでは武器や麻薬が堂々と売られたり取引されたりしている。(赤い背当て部分)

トライバルエリアは、”部族地域” という意味で、正式には ”連邦直轄部族域” と訳されるけど、パキスタンという国ができる前からこの土地に住んでいる部族制社会の慣習法が、国法を上回っているというわけ。

パキスタン国内北西部のアフガニスタン国境地帯にあり、西にアフガニスタン、東に北西辺境州とパンジャーブ州、南にバローチスターン州と州境を接している。 
面積27,220平方キロ。総人口は2000年の推計で
約3,341,070人でパキスタンの総人口の約2%。
また域内住民の内、都市部に居住するのは3.1%に過ぎない。
パキスタン国内でも最も辺境の地域といえる。

7管区の部族地域と5辺境地区から構成される。
(主な情報は、ウイキペディアより) 

現在は、この地域に入るには役所の入域許可証が必要で、護衛の警察官同伴でなければ通れないらしいよ。
でも、無法地帯だけあって、その警察官が強盗に豹変することもあるらしい。

そんな事情でこの地域は現在アルカイダの隠れ家になっていて、9.11の首謀者とされるビン・ラディンや、タリバンの最高指導者、ムハンマド・オマル氏もこのあたりに潜んでいると見られている。
彼らを支援している部族長は、オマル氏の引渡しを拒否した。

トライバルエリアは国境からペシャワールの手前まで、50キロも続く。

PAKISUTAN という国名自体が、五大地域であるパンジャーブのP、北西辺境州に住むアフガーン人のA、カシミールのK、シンドのS、バローチスターンのTANに由来しているそう。
単一民族ではないのだから、パキスタンというひとつの国としてひとくくりして
しまうことに無理があるのかもしれないね。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


パキスタンに入国

次の目的地であるペシャワールは、北西辺境州の行政上の中心地。

また、埃まみれで、屋根まで荷物と人が乗り、車内まで砂埃でいっぱいのバスに揺られて、トライバルエリア内の乾燥地帯を行く。
パキスタンのバスは装飾が派手で、クラクションも騒がしくて、運転手席では地元の音楽をかけっぱなし。
何だか陽気でいいような気もするけど。

もちろん、この国でも1日に5回の決まった時間にはバスが止まって、乗客たちは外に出て地面に敷物を敷いて、メッカの方角に向かって祈りを捧げる。


パキスタン砂漠地帯

途中の景色


パキスタンの川

それでも川があるとほっとするね。


ペシャワール

パキスタンの最初の町、ペシャワールに無事着いたよ。

(命がけって書いたけど、”地形的に危険” て意味だったんだヨ 。
私はこの頃のこの地域は貧しさゆえの山賊はいても、平和だったと思う。
一般の人は誰も銃を持っていなかった。

ところで、映画のランボー3は、この町から始まっているそうだ。)


ペシャワールは、”国境に立つ町”っていう意味で、かつてはガンダーラの中心都市として栄えたんだって。遺跡らしい遺跡はないけど。



パキスタンの通り

ペシャワールの通り。
モンスーンが来た後は、道路もこんなふう。

右のバイク屋さんの看板に、YAMAHAって文字が…。



洪水道路

道路の向こう側に渡るのにもこんな状態。
(おもしろがってない?)



この町では、バザールの中にあるマハバット・ハーン・モスクの中の装飾が、とてもきれいだった。



タキシラ古代都市遺跡

ガンダーラ最大の遺跡、タキシラはペシャワールとイスラマバードの間にあって、仏教を中心とした学園都市、古代インドの数学の中心地で、アショカ王以前から、インドの王子は一度はタキシラに留学するとされていたそう。

世界遺産にも登録されている。

そこから7キロくらい離れたところにもジョーリアン遺跡というのがあって、そこにも素晴らしい仏像の数々がある。


イスラマバードとラワルピンディ

ラワルピンディの北に位置するイスラマバードは、1959年6月にパキスタンの首都に選定され、1961年に開発が始まった人工都市。
街路が升目状のに敷かれ、高層ビルが建ち並ぶ行政の中心都市。
(だから、そこだけアメリカみたい)
北部には、巨大なモスク(ファイサル・モスク)がある。

ラワルピンディは、古くからあった商業都市で、暖か味のある庶民の町。


ところで、アレキサンダー大王の軍は、ぐんぐん東へ進んで行ったんだけれど、どこまで行ったか知ってる? 
インドまでは行っていないよね?

彼はその頃、アケメネス朝ペルシャを蹴散らしてここまで侵入して来たんだけれども、インドのマウリア王とこのあたりで対峙して、西にUターンしたそう。


ラホールのバドシャヒ・モスク  

インド国境に近い、ラホールにあるこのモスクは、タージマハールと同じムガール帝国の時代(1673年)に造られたもので、一度に10万人が礼拝できるともいわれる、世界最大級のモスクだって。


ちなみにパキスタンの首都はイスラマバードだけど、現在、パキスタン最大の都市はカラチ(元首都)で、第2の都市はラホール、第3の都市はラワルピンディだそう。






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3-9 アムリッツァ ~ ニューデリー(インド) 

インドに入国!

インドとパキスタン間にも長い間に渡って国境線を巡る紛争が絶えないんだって。
数年前にもカシミール領有権を巡って何度目かの印・パ戦争がり、国連によって暫定的な停戦ラインが引かれるまでは国交断絶。
パキスタンからインドに入ることはできなかったそうだ。
それについて聞いたことには、また追々触れて行くね。

さて、インドにも現地のオンボロ乗り合いバスで入ったんだけど、国境を越えたあたりはでこぼこの道が真っ直ぐにのびているだけで家は一軒もなくて、
村の道に入ったら、モンスーンの後の道が泥水で溢れていて、バスが船のように水上をプカプカと進んで行ったんだよ。
心配だったー…。
今、この地域は雨季だそうだけど、そのモンスーンの威力はすさまじいものだ。
洪水の被害も大きいと思う。

灌漑とか進んでいないのかなー…。




これ、ふつうの道路。 バスはこの水の中を進んでいる。   汗とか



アムリッツァ

国境に近いアムリッツァは、シーク教(ヒンドゥー教の一派)の総本山の町。
(この町とガンジーにまつわる話は、追記に入れておいたので読んで)

アムリッツァには3日くらいいたかな。
いよいよどっぴろいインドの内陸に向かって進むのだけれど、インドで初めて電車に乗った時はどぎもを抜かれたよ。

駅には人がたくさん住んでいて、やかんやお鍋が置いてあったりする。
(屋根と水道があるから)
電車の窓に鉄格子がはめられている。
物乞いの人たちが、そのバーの間に手を差し出すのだけれど、その手には指がなかったりするんだ。
鉄格子は無賃乗車防止のためだろうけど、電車が走り出せばたくさんの人がいっせいにデッキや屋根に飛び乗る。




インドの電車で、たぶん一等車。 窓に鉄格子が付いている。
(これはまた別の時に撮った写真)




窓アップ。(乗客の方が閉じ込められている側みたい)



駅で降りて通りに出た時も驚いた。
あっという間に物乞いや物売りや、リキシャの客引きに囲まれて、先へ進めない。

洋服がボロボロで裸足で痩せ細った子どもたちに「バクシシ」(何かちょうだい)と真っ黒に汚れた手を差し出された時には、拒否するのは可愛そうと思ったけれど、裕さんに、「相手にしちゃだめ」と言われ、無視するのが大変だった。

そんなことにどぎもを抜かれている場合ではなかった。
道を歩いていたら、橋の欄干の脇や道路脇に、身動きもしない人たちが横たわっているんよ。
横たわっているというか、ゴロゴロ転がっている。
死んでいるのか生きているのか、わからない。

そんな光景を見たら、日本だったら「どうかしましたか」って声をかけるなり、救急車を呼んであげたりしない?(最近はわからないけど)

少なくとも、「自分はこのまま通り過ぎていいんだろうか」って迷うと思うんだ。

でもそこではそういう人たちのそばを、まるで何事もないように、人々が談笑しながら通り過ぎて行く…。

ところが、何日かインドの町にいるうちに、いつのまにか自分もそういう一人になって、平気でそういう人たちのそばを何も感じずに歩いている自分を発見してショックを受けた。

インドでは、命の価値が軽いの?

裕さんに聞いたんだけど、インドでは人口が増え過ぎて、貧しい人たちが特に子だくさんなんだって。
避妊の教育も行き届いてないし、他に楽しみもないから。
それで、政府も頭を悩ませていて、避妊したカップルにはトランジスタラジオとかの景品を贈る政策とかもあるんだって。

そして、インドには階級制度があって、一番階層の低い人たちは、アンタッチャブル(触るのもはばかられるくらい汚ない、不可触賤民という意味)と呼ばれて、人間扱いをされていないのだそうだ。

その人たちは、生まれてから死ぬまで、その身分で過ごして、がんばっても上には上がれないんだって。
一生、まともな仕事には就けなくて、トイレ掃除とか死体の片付けなどの、人が嫌がる仕事を死ぬまでし続けるのだそうだ。
それが前世の罰だから仕方なくて、それから救われるのは、死んでガンジス川の中にあるあの世との分かれ目からあの世に行く時だそう。
だから、インドではお葬式がお祭りのようなんだって。
「やっとこの世の苦しみから解放された。お祝いだー」って。

ほんとかなー…。


ニューデリー



現在のニューデリー駅周辺 (写真:フォトライブラリーより)
当時とほとんど変わっていないみたい。





インドの駅(たぶんニューデリー)のホーム。
柱に貼ってある表示がヒンドゥー語だ。



ニューデリーと聞くと、じゃ、デリーか、オールドデリーがあるのかな、って思うでしょ。

イギリス領時代の1911年、カルカッタからデリーにインドの行政府所在地が移された時に、デリー市街(現オールドデリー)の南方約5kmほどの場所に行政都市として建設されることとなったのだけれど、それがニューデリーの始まりなんだそう。

そして都市計画はイギリス人によって行われたため、道路は整然と配置され、沿道は大きく育った街路樹と庭園の緑に包まれていて、建物もイギリス植民地様式が多くなっている。(ウイキペディア調べ)


ニューデリーで久しぶりにシャワー付きの安ホテルに泊まったんだけどね、
おかしかった。
シャワーのふたつの蛇口に、”ホット” と ”コールド” と英語で書かれていたので、ホットの方をひねったら、お湯が出た。
それで、「あー、やっと文化的な生活ができる」 と思って、コールドの方をひねったけど、なぜかそっちからも熱いお湯が出る。

「あれ、ボイラーが壊れているんかな」 って思ってしまった自分がおかしくて、いつまでも笑っていたよ。

そう、インドには冷たい水なんてなかったんだ。
熱い水しか出ないんだよ。一年中、夏なんだもの!
(なんで気取って、英語の表示なんか付けとくんじゃぁ~っ!!)


その頃、裕さんと私は、もういつも一緒にいた。
(うん、ありがとう。私も一応、ふつうの女の子だし)

朝ね、窓を開けてドキッとしたぁ…。
道路沿いにずら~っと見渡す限り、布にくるまったミイラのようなものが、並んでいたから。
それは、道路をねぐらとしている人たちだったんだよ。

裕さんが言った。
「インドのお金持ちは、日本とは比べ物にならないほど裕福なんだ」

「天国と地獄が同居しているような国だな」
そして、
「いまだに道路の上で生まれて道路の上で死ぬ人がいる国は、インドだ
けだろう」 とも。

そういう風景が日常になっているインド。
人々は本当に、その現実を受け入れているんだろうか。
宗教上の解釈で…?!

この地で生きたマザーテレサとガンジーの思いが、身近なものとして迫って来た。






インド編は、あと8編続くよ。

続きを読む>> に追加資料あり
 




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3-10 タジマハール (インド / アグラ)  


今日はグッと心に残った、インドのお伽話のような実話について話すね。



  t8.gif 

インドで栄華を誇っていたある王様には、それはそれは優しくて美しい奥さんがいた。
王様はその妃を深く愛していたんだけれど、彼女は若くして亡くなってしまったんだ。
王はたいそう悲しみ、大金を投じて亡き妻のために、世界一美しく立派なお墓を建てることにした。

近隣諸国、はては遠国から、2万人ともいわれる一流の芸術家や建築家を呼び寄せ、22年の歳月をかけて1631年に完成したのが、タジ・マハール。
インド・イスラム建築の最高傑作といわれ、もちろん世界遺産になっている。

王様は、ムガール王朝 第5代皇帝、シャー・ジャハ-ン帝。
妃の名前は、タージ。
本名はムムターズ・マハールというらしいけど、タージは、
”ムムターズ” が訛った愛称ではないか、と言われている。

タジ・マハールがあるのは、ニューデリーの東南約180kmにある ”アグラ” という町。
アグラは ”楽園” という意味で、中世3世紀に渡りインドの中心地だった。




タージマハール

タジ・マハール

タージの棺が地下中央に安置された墓廟は総大理石造りなので白亜色。

アラビアンナイトを思わせる宮殿のようで、壁や棺には色とりどりの石が綺麗な柄になって嵌め込まれている。
(いろんな国から取り寄せたあらゆる種類のもっと高価な宝石の装飾もあったそうだけど、イギリス人が持って行ってしまったんだって。
ひどいね!墓荒らしじゃない?!怒

敷地内には正門、モスク、ゲストハウス、回廊などが、左右対称の
建築様式の優雅で独特なバランスを保って佇んでいる。



タジマハール入口門

本廟から正門を見たところ


入口門FL

同じ門 (フォトライブラリーさんのフリー素材より)



向かって左

  ↑ 向かって左 (写真: フォトライブラリー)
  
 向かって右
  
  ← 向かって右 

 ね? 左右対称でしょう?

 向こうに見えるのは、ゲストハウス







タジマハール回廊

入口から本廟まで、左右に伸びる回廊



でも、その美しい左右対称のバランスを壊す場所がたった一箇所だけある。

シャー・ジャハーンはヤムナー川を挟んだ対岸に黒大理石の墓廟を自分のために建てたかったのだけれど、それは叶わず、
亡くなったあとその棺はタージの棺の横に並べて置かれた。

だからタジ・マハールは、ふたりの棺が置かれている部分だけ左右対称じゃないんだよ。

どう思う? このお話。
たった一人の女性のためにここまで立派なお墓を造る男性は他にはいないよね。
彼女は幸せだったのかなー…。







お伽話のような実話その2  アグラ城


話の続きはまだある。
この皇帝、シャー・ジャハーンは晩年に三男のアウラングゼーブに王位を奪われ、タジ・マハールから2kmほど離れたアグラ城の中にある塔に9年近く幽閉された。
アウラングゼーブは王位ほしさに兄弟も殺したそうだけれど、父親は殺さなかったんだね。
シャー・ジャハーンは、一歩も外へ出ることを許されず、毎日塔からタジ・マハールを眺めて涙を流していたという。

でも、最後にタージの棺の横に棺を置いてもらえてよかったね!




レッドフォート入口

アグラ城 アマール・シン門

アグラ城は、第3代アクバル大帝によって築かれた、美しい赤い砂岩が特徴の城砦。
その色から ”レッドフォート” (赤い城塞)とも呼ばれていて、ムガール帝国歴代皇帝の居城でもあった。

頑丈で、見るからに攻めにくそうだよね。




アグラ城シャンギール宮殿FL

城内のシャンギール宮殿 回廊の一部 (写真: フォトライブラリー)


この城を築いたアクバル大帝(大帝と呼ばれたのは彼だけ)は、軍事力だけでは民衆の心はつかめないと悟り、ヒンドゥー教を始めとする他の宗教との融合を図ったそう。
なのでこの回廊にもヒンドゥー建築の特徴が取り入れられている。

=ヒンドゥー様式に見られる細かい装飾や、イスラム教建築では禁じられている生き物(ここでは象)の装飾を施したり、素材には石を使っている。(木のようにも見えるけど)




謁見の間

右にあるのが、ティワーニ・アーム (一般謁見の間)

声がよく通るように、また皇帝の姿は外のどこからも見えないようにデザインされているという。
(ここの王座のまわりの壁にも高価な宝石の装飾があったけど、やっぱりかの国の人たちに持って行かれてしまったんだって)




アグラ城内


アグラ城外壁

アグラ城城壁  城壁の高さは20メートル。


      
2222473.jpg

アグラ城城壁 (写真: フォトライブラリー)

突き出している部分が、サマン・ブルジュ(囚われの塔)。
ここに9年近く幽閉されたシャー・ジャハーンは、タジ・マハールを見ながら息を引き取った。




△ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲


タジマハール絵葉書文面2


タジ・マハール絵葉書文面

表現に問題があるかもしれないけれど、ライブで伝わることもあると
思うのでそのまま載せるね。(クリックすると少し大きくなる)



△ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲


3-11 カルカッタ (現 コルカタ) 

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カルカッタ の現実


それから私たちは、電車でカルカッタへ向かう。
カルカッタの町はニューデリーやアグラよりも貧富の差が激しいように思えた。

市内はリキシャと呼ばれる人力車や路面電車風バスに乗って移動したんだけど、
お金持ちの家の塀に沿った道路をバスが30分走り続けても、まだその塀の端に行き着かなかった。
同じお金持ちといっても、日本とスケールが違うみたい。

バスの窓から敷地内が見えた。
そこは緑の芝生で覆われていて、痩せた使用人がホースでその途方もなく広い庭に、手仕事で水を撒いていた。
遠くに洒落たテーブルとパラソルがあり、その家の主人らしい太った男性とその家族らしい人たちがお茶を飲んでいるみたいだったけど、そこにもやはり、召使いたちがはべっていた。

そのバスが橋の下を通ると、その両側には腐ったようなボロ敷物が敷かれ、鍋や衣類が置かれている。
そう、貧しい家族が何組もそこで暮らしているんだ。

橋の下なら橋が屋根になるけど、物乞いをしながら路上で暮らす人もたくさんいる。
その人たちの着ているものは、汚れでもう元の色もわからなかった。

昼間はいいけど、夜や暗い裏道では、道路の隅に人が転がっていてもわからない。
顔の色も着ているものの色も、闇に同化してしまっていて。

インドでは子どもの物乞いも多いけど、親が子どもを使って物乞いをさせるケースがほとんどだそうだ。
その方が同情を買えるから。
中でも目についたのが障害を持った子どもたちの物乞いだけれど、そういう子たちの中には、生まれた時に親にわざと骨をねじ曲げられたり折られたりする子もいるんだって。
不具者の方が、物乞いをする時にもっと同情を買えるから。

そう言われて見ると、本当に足が不自然な形に曲がった子が、車輪の付いた板の上に乗って、手を道路について漕いで寄って来た。

インドでは食べて行くためにどんな商売でもありで、子どもの死体を売る親までいるという。(ショック)

物乞いでなく、物を売る子どもたちもいる。
信号などでリキシャやバスがちょっと止まった瞬間にも、新聞だのジャスミンで編んだ首飾りだのインドのお土産などを買ってくれって寄ってくる。
その子たちの表情が、子どもらしく明るいので救われたけど。


カルカッタの観光案内はやめておくね。
観光としてはどこも見ていないし、上に書いたのが私の見たこの町のありのままの姿だから。


カルカッタから先のビルマ(現ミャンマー)では戦争をしていて入れないということだったので、私たちはカルカッタの空港から飛行機に乗って日本へ帰ることにした。
だから今回の旅は、ここで終わり。



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だけど、次回はまたインドに戻って来て3か月滞在するよ。
今回は北部だったけど、次回は南インドね。
今回は貧乏旅行者だったけど、次回は通訳の仕事で。
そこで、現地の人の中で、社会のシステムや習慣の違いからいろんなハプニングが起きる。
あと数話インド編が続くので、インドの私にもう少しつきあってね!


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続きを読む>> に、どーでもいいかもしれない追記あり ムフフ


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3-12 マドラスで通訳 (インド) 

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インドは天国と地獄が同居している国

豊かさと貧しさ 美と醜さ 
精神的なもの物質的なものの境目が見えそうな…

日本もまだ生まれていなかった何千年前に
すでに立派な文化があったのです
お釈迦様も将棋もインドから

ごっちゃだから境目がなく全体がひとつで
だから豊かなのかナァ

-旅のメモより

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1976年9月初め、私は裕さんたちと2か月半に及ぶヨーローパ・中近東・インドの旅を終え、陸路最終地点のカルカッタ(現コルカタ)から日本へ空路で帰り、
それからまた日本で働いてフランスへ戻ってフランスの大学へ一年行って、
その後また帰国してから、1980年にインドへもう一度行ったんだよ。

前回は貧乏旅行者としてだけど、今回は(インドの物価から見たら)超高給取りとして。
だから、二つの立場からインドを見たことになる。

貧富の差が激しいインドだから、このコントラストはすごいね。
インドのホテルマンの月給が日本円換算で 4,500 円、
最高で銀行の頭取が15,000 円 というという時節に、
私が通訳として行った会社が社宅として借り上げてた家の家賃が、
30,000 円だったんだよ!
それに、料理人と車とドライバーまで揃ってた。

前回は中近東経由でインドに入ったけど、今回は南インドのマドラス(現チェンナイ) という町へ飛んだ。
マドラスは ”マドラスチェック” で有名だね。


インド地図2
 東方観光局 インド地図



マドラスの大通り  

牛車

マドラスの大通りマウントロード。イギリス風建物の前を牛車が行く。 

北インドとは、ずいぶん雰囲気が違う!



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どんな仕事かというとね、
日本で銀座の高級デパートへも商品を納品している日本のハンドバッグ製作会社が、一年半余り前に、”インドならいい皮が安く入るし人件費も安く済むから” って、インドに工場を立ち上げていた。
それで、日本人社長と技術指導員現地のマネージャーと従業員たち との意思疎通がよりスムーズに行くようにと、
今回は私もスタッフに加わり、通訳として同行することになったわけ。

イスラム教徒のマネージャーは体格もよく精悍で、さすがに階級制度が徹底しているインドのこと、従業員に対して可哀そうなほど威圧的だったけど、
階級制度がない日本人の私たちは、どんな下層階級の従業員とも同じひとりの人間として接していた。

そんな従業員たちは、気候・風土のためもあるのか、
”一生懸命がんばろう”って気概は感じられず、特に細かい作業に集中させることが最初はとても難しかったということだった。
ミシンを見たことも触ったこともない人たちだったからね。
だから、直線縫いができるようになることが第一の難関だったって。

おもしろいことにね、直線縫いができるようになっただけで、自分はもう技術者になった気になって、辞めたり他社に自分を売り込みに他社へ行った者もいたそう。

全体的にのんびりしていて、女性従業員たちはミシンをかけながらも、あっち向いたりこっち向いたりして映画の話や夕飯のしたくの話題で賑やか。
インドでは、製品の縫い目が少しくらい曲がっていても誰も気にしないんだ。

でも、その従業員たちも、私の身の回りの日本製の持ち物あれこれの端正に走る縫い目を見て、それらが全部安物(私の持ち物だもの)と知って、
「日本製の出来栄えは、ハンカチに至るまで、何もかも超一流!」
と感嘆。
きちんとした物が作れなければ通用しない、と悟ったみたい。


さて、初日に早く出勤して、私が事務所のお掃除をしていた時のこと、
後から出勤して来た彼女たちがね、私に何て聞いたと思う?

「なんであなたはそんなことをするの?!!
インドでは、お掃除は身分の低い人たちの仕事なのに!!」

それで私はね、
「だって自分たちが使う場所じゃない。自分の家と同じでしょ。人にしてもらわなくても自分できれいにした方が気持ちいいから」
って言ったんだ。
ここでは、汚い仕事はカースト制度の階級の低い人たちがやるって決まってるんだね。
従業員たちだって、決して高い身分の子たちじゃないのに。



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女性従業員たち  女性従業員たち 
                  
 彼女たちの給料は、一日
 4ルピーから17ルピー。
 (当時は1ルピー30円)
 



貧しい子は木綿の服、少し余裕のある子は最新ファッションの ”ポリエステル製” サリーを着ている。
ポリエステルは絹の次に高価。



指導中  技術指導中
 
 右は同行した日本人職人
 I さん。
 彼は2度目のマドラス出張。
(これ見たら連絡下さーい)






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その翌日の朝、私が出勤して前の日と同じように事務所のお掃除をしていたら、なんと、女性従業員たちが定時より早く次から次へとやって来て、いっしょにお掃除を始めたんだよ。
「あなたの言う通りよ。私たちも、自分たちが仕事をする場所は自分たちでお掃除します」 と言って。

(もしかしたらそれは、カーストの低い人たちの仕事を奪ってしまったんじゃないかって気もしている。郷に入ったら郷に従うべき? )

しばらくするうちに、他にも従業員たちには変化があった。
従業員たちとの間に、信頼関係が生まれて来た。

インドでは、現地のスタッフに郵便物の投函や買い物を頼むと、時々切手を剥がしてねこばばしたり、おつりは必ずと言っていいくらいごまかすそう…
それが当たり前で、切手一枚剥がして売れば、貧しい家族だったらそれで一日暮らせるからだって。

うちの従業員たちも最初はそうだったけど、日本人との間に信頼関係が生まれて、だんだん心が通じ合うようになって行ったんだよ。



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借家とタビー君2 借家の庭と牛

(左) 右が社宅として会社が借りた一軒家で、左が大屋さんの家 
(右) 時々放浪牛が庭に散歩に



窓のリス 私の部屋の窓に巣を作っていた
 リスの赤ちゃん。

 帰国の頃にはもう大きくなって
 庭をかけ回っていた。










料理人ドレイ  料理人、ラージャ
 ビルマ人の彼は仏教徒で菜
 食主義者。
 穏やかで目がとても澄んで
 いた。日本人に合うお料理
 を作ってくれる。






彼は戦時中、ビルマで日本の憲兵隊の料理人をしていたんだって。
「みんな長いナイフ(刀)を持っていたなあ。
日本へ帰る時、私を呼んだので怖くなったが、しずしず行ってみたら、みんなで私を胴上げした」

私たちがおむすびを作っているのを見て彼は、
「ああ、見たことがある。ビルマで直撃爆弾の降る中で、子どもを失った日本人の母親たちが泣きながらこのライスボールを作っていた」って話してくれた。




マドラス美術館

私のお気に入りのひとつ、マドラス美術館


マドラス美術館と私たちの専属運転手  
 手前は会社の車とお抱え
 運転手。
 
 車はインドの高級国産車、
 アンバサダー。






マドラス風景

ここもまた別の 好きなスポットかな


工場の屋上で

工場の屋上より

(上)工場のあるビルの屋上で。 
ここにいると、日本では色黒の私も、「ひょっとして私は白人かも…」 って錯覚に陥る。
屋上の隅には貧しい一家族が住んでいた。

(下)屋上からの眺め。手前はビルを壊した跡だけど、貧しい人たちが来て、売るためにレンガの破片までかき集めて行ったそうで、何も残っていない。



ふやけた手 あまりの暑さにふやけて、あせ
 もでしもやけみたいに
 ただれてしまった手のひら。

 汗の塩分で、痛がゆい。




× × × × × × × × × × × × × × × × × × × × ×

(次号に続く)


3-13 マドラスで事件(1) 


マドラスの町の風景

(まずはアルバムの続き。お話は後半に)



マドラス駅近くのムアーマーケット 

トラック  

中央駅かいわい。向こうに見えるのは高級デパートのスペンサーズ。
着ているのはヨーロッパへの輸出専門製造工場でじかに買った2ルピーのサマードレス。(地元の子によると、私ボラれて、ほんとは1ルピーで買えたそう)



さとうきびジュース屋さん2 駅前大通りのさとう
 きびジュース屋さん。

 その場で搾って売る。







中央駅裏のムアー市場 
 
ムアー市場の肉屋さん

上は中央駅裏のムアーマーケット。下はムアーマーケット内の肉屋さん。
注文されるとその場でひねって、「はい、毎度ありいっ!」
(何でも新鮮…) 
 うぁぁん


インドの映画館
マドラスの映画館

インドでは映画が大きな娯楽を占める。4時間5時間もんはざらだって。
昼間から人がいっぱい。仕事は…?



お弁当  お弁当アップ

会社のお昼に近くのチャイニーズテイクアウェイで買ってくるおべんとう。
乾いたバナナの葉っぱに包み、コットンひもでぐるぐるゆわえてある。
もちろん、手で食べる。

水はタミール語でタンニール。にがい。沸騰させ、浄水器で漉す。

他に食べるものがないので、けっきょく毎日これか、パサパサのパンにマーガリンか、カレーにチャパティ。フルーツは山ほど。 

コーヒーは、一階のお茶屋さんに運んできてもらう。
一杯25パイサ(7.5円)
ところで、インドでもコーヒー作ってるって、知ってた?



通りの物売り  
 インド風物詩

 通りの   
 野菜・果物売り












35℃の炎天下、はだしで荷車を引く。
1コ売りする。てんびん式のはかりで値を決めて。

1ルピー(30円)で小さなマンゴーが10コ。
モンキーバナナは4本。

小さな移動式お店だけど、大きな車輪は木製で、ディスプレイもきれいによくまとまっていて新鮮そうで色鮮やか。
素敵な風物詩になっているけど、おじさん、自営かな、雇われかなー…
クリックして大きくして見て。すごくいい写真。
売り物から、おじさんの人柄が伝わってくる。




インドの食事2  手でごはん

レストランではこんなふう。
これは ”ミールス” というメニュー。何種類もの
カレーがバナナの葉のお皿にのったごはんといっしょ
に出てくる。

食べ方は、右手の人差し指と中指と薬指の三本にひとかたまりのたべものを乗せて親指でさっと口の中へ押し込む。
(レディーほど指先だけ使い、品のない人は肘まで汚して食べるのだそう ドキッ

慣れるとおいしいよ。少なくとも暖かみのない金属製のフォークやナイフよりずっといい。

ところで、インドの自然の恵みあふるる収穫物のごちそうを食べて元気いっぱいだった私は、(アフガニスタンの時と違って)今度は日本の防腐剤入りのインスタント食品を食べてお腹をこわし、早退して寝込んだんことがあったんだよ。


そして、最初は直線縫いもできなかった従業員たちが…


バッグ2  バッグ3

工場設立二年近くにして、これほどの作品を仕上げられるようになって来たのです!
上は実際にドイツのフランクフルト国際皮革製品見本市のインドコーナーに出品された作品。



バッグ1 左半分は、試みにインドの
 ウエディング用サリー地で
 作ってみたパーティー用の
 ポシェット。
 綺麗で可愛いでしょう?







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話の続きに戻るね。
それが、大変なことになって来ちゃったんだ。(|| ゚Д゚)

しばらく滞在する間に、私は通訳する内容を理解するために、勉強のつもりで会社の差しさわりのない書類を読ませてもらったんだ。
その中の、社長とマネージャーとの書簡の内容に!?
現地の従業員たちと直接話したことと、内容が食い違っていたから。

給料の額は、現地の相場があるから彼に任されているにしても、日本の社長から、「みんなよく働いてくれているから」 って、ボーナスを出したはずなのに、誰ももらっていなかった。
それから、お父さんが亡くなった従業員に社長からの気持ちで香典を出したのに、それも渡っていなかった。

とんでもないものを見つけちゃった… 汗
それもそういう状況を発見したのは、黒子であり、ビジネスの中身にまでは口を出すべきではない通訳の私…。

どーしたらいいんだーっっ!!告発する??
こわいよ、マネージャーは大柄で強そうだし…。
外国にいて不利な立場になったら、何をされるかわからないじゃない? 
警察に言っても、警察が不正をしている国なんだから。

I さんはそこまでは気がついていないみたいだし、社長は時々、現地入りはしていたけれど、
きっと実情を知らないと思う。

どうしよう?!
もちろん、話すべきだよね??


***********************

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