3-11 カルカッタ (現 コルカタ) 

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カルカッタ の現実


それから私たちは、電車でカルカッタへ向かう。
カルカッタの町はニューデリーやアグラよりも貧富の差が激しいように思えた。

市内はリキシャと呼ばれる人力車や路面電車風バスに乗って移動したんだけど、
お金持ちの家の塀に沿った道路をバスが30分走り続けても、まだその塀の端に行き着かなかった。
同じお金持ちといっても、日本とスケールが違うみたい。

バスの窓から敷地内が見えた。
そこは緑の芝生で覆われていて、痩せた使用人がホースでその途方もなく広い庭に、手仕事で水を撒いていた。
遠くに洒落たテーブルとパラソルがあり、その家の主人らしい太った男性とその家族らしい人たちがお茶を飲んでいるみたいだったけど、そこにもやはり、召使いたちがはべっていた。

そのバスが橋の下を通ると、その両側には腐ったようなボロ敷物が敷かれ、鍋や衣類が置かれている。
そう、貧しい家族が何組もそこで暮らしているんだ。

橋の下なら橋が屋根になるけど、物乞いをしながら路上で暮らす人もたくさんいる。
その人たちの着ているものは、汚れでもう元の色もわからなかった。

昼間はいいけど、夜や暗い裏道では、道路の隅に人が転がっていてもわからない。
顔の色も着ているものの色も、闇に同化してしまっていて。

インドでは子どもの物乞いも多いけど、親が子どもを使って物乞いをさせるケースがほとんどだそうだ。
その方が同情を買えるから。
中でも目についたのが障害を持った子どもたちの物乞いだけれど、そういう子たちの中には、生まれた時に親にわざと骨をねじ曲げられたり折られたりする子もいるんだって。
不具者の方が、物乞いをする時にもっと同情を買えるから。

そう言われて見ると、本当に足が不自然な形に曲がった子が、車輪の付いた板の上に乗って、手を道路について漕いで寄って来た。

インドでは食べて行くためにどんな商売でもありで、子どもの死体を売る親までいるという。(ショック)

物乞いでなく、物を売る子どもたちもいる。
信号などでリキシャやバスがちょっと止まった瞬間にも、新聞だのジャスミンで編んだ首飾りだのインドのお土産などを買ってくれって寄ってくる。
その子たちの表情が、子どもらしく明るいので救われたけど。


カルカッタの観光案内はやめておくね。
観光としてはどこも見ていないし、上に書いたのが私の見たこの町のありのままの姿だから。


カルカッタから先のビルマ(現ミャンマー)では戦争をしていて入れないということだったので、私たちはカルカッタの空港から飛行機に乗って日本へ帰ることにした。
だから今回の旅は、ここで終わり。



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だけど、次回はまたインドに戻って来て3か月滞在するよ。
今回は北部だったけど、次回は南インドね。
今回は貧乏旅行者だったけど、次回は通訳の仕事で。
そこで、現地の人の中で、社会のシステムや習慣の違いからいろんなハプニングが起きる。
あと数話インド編が続くので、インドの私にもう少しつきあってね!


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続きを読む>> に、どーでもいいかもしれない追記あり ムフフ


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3-12 マドラスで通訳 (インド) 

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インドは天国と地獄が同居している国

豊かさと貧しさ 美と醜さ 
精神的なもの物質的なものの境目が見えそうな…

日本もまだ生まれていなかった何千年前に
すでに立派な文化があったのです
お釈迦様も将棋もインドから

ごっちゃだから境目がなく全体がひとつで
だから豊かなのかナァ

-旅のメモより

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1976年9月初め、私は裕さんたちと2か月半に及ぶヨーローパ・中近東・インドの旅を終え、陸路最終地点のカルカッタ(現コルカタ)から日本へ空路で帰り、
それからまた日本で働いてフランスへ戻ってフランスの大学へ一年行って、
その後また帰国してから、1980年にインドへもう一度行ったんだよ。

前回は貧乏旅行者としてだけど、今回は(インドの物価から見たら)超高給取りとして。
だから、二つの立場からインドを見たことになる。

貧富の差が激しいインドだから、このコントラストはすごいね。
インドのホテルマンの月給が日本円換算で 4,500 円、
最高で銀行の頭取が15,000 円 というという時節に、
私が通訳として行った会社が社宅として借り上げてた家の家賃が、
30,000 円だったんだよ!
それに、料理人と車とドライバーまで揃ってた。

前回は中近東経由でインドに入ったけど、今回は南インドのマドラス(現チェンナイ) という町へ飛んだ。
マドラスは ”マドラスチェック” で有名だね。


インド地図2
 東方観光局 インド地図



マドラスの大通り  

牛車

マドラスの大通りマウントロード。イギリス風建物の前を牛車が行く。 

北インドとは、ずいぶん雰囲気が違う!



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どんな仕事かというとね、
日本で銀座の高級デパートへも商品を納品している日本のハンドバッグ製作会社が、一年半余り前に、”インドならいい皮が安く入るし人件費も安く済むから” って、インドに工場を立ち上げていた。
それで、日本人社長と技術指導員現地のマネージャーと従業員たち との意思疎通がよりスムーズに行くようにと、
今回は私もスタッフに加わり、通訳として同行することになったわけ。

イスラム教徒のマネージャーは体格もよく精悍で、さすがに階級制度が徹底しているインドのこと、従業員に対して可哀そうなほど威圧的だったけど、
階級制度がない日本人の私たちは、どんな下層階級の従業員とも同じひとりの人間として接していた。

そんな従業員たちは、気候・風土のためもあるのか、
”一生懸命がんばろう”って気概は感じられず、特に細かい作業に集中させることが最初はとても難しかったということだった。
ミシンを見たことも触ったこともない人たちだったからね。
だから、直線縫いができるようになることが第一の難関だったって。

おもしろいことにね、直線縫いができるようになっただけで、自分はもう技術者になった気になって、辞めたり他社に自分を売り込みに他社へ行った者もいたそう。

全体的にのんびりしていて、女性従業員たちはミシンをかけながらも、あっち向いたりこっち向いたりして映画の話や夕飯のしたくの話題で賑やか。
インドでは、製品の縫い目が少しくらい曲がっていても誰も気にしないんだ。

でも、その従業員たちも、私の身の回りの日本製の持ち物あれこれの端正に走る縫い目を見て、それらが全部安物(私の持ち物だもの)と知って、
「日本製の出来栄えは、ハンカチに至るまで、何もかも超一流!」
と感嘆。
きちんとした物が作れなければ通用しない、と悟ったみたい。


さて、初日に早く出勤して、私が事務所のお掃除をしていた時のこと、
後から出勤して来た彼女たちがね、私に何て聞いたと思う?

「なんであなたはそんなことをするの?!!
インドでは、お掃除は身分の低い人たちの仕事なのに!!」

それで私はね、
「だって自分たちが使う場所じゃない。自分の家と同じでしょ。人にしてもらわなくても自分できれいにした方が気持ちいいから」
って言ったんだ。
ここでは、汚い仕事はカースト制度の階級の低い人たちがやるって決まってるんだね。
従業員たちだって、決して高い身分の子たちじゃないのに。



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女性従業員たち  女性従業員たち 
                  
 彼女たちの給料は、一日
 4ルピーから17ルピー。
 (当時は1ルピー30円)
 



貧しい子は木綿の服、少し余裕のある子は最新ファッションの ”ポリエステル製” サリーを着ている。
ポリエステルは絹の次に高価。



指導中  技術指導中
 
 右は同行した日本人職人
 I さん。
 彼は2度目のマドラス出張。
(これ見たら連絡下さーい)






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その翌日の朝、私が出勤して前の日と同じように事務所のお掃除をしていたら、なんと、女性従業員たちが定時より早く次から次へとやって来て、いっしょにお掃除を始めたんだよ。
「あなたの言う通りよ。私たちも、自分たちが仕事をする場所は自分たちでお掃除します」 と言って。

(もしかしたらそれは、カーストの低い人たちの仕事を奪ってしまったんじゃないかって気もしている。郷に入ったら郷に従うべき? )

しばらくするうちに、他にも従業員たちには変化があった。
従業員たちとの間に、信頼関係が生まれて来た。

インドでは、現地のスタッフに郵便物の投函や買い物を頼むと、時々切手を剥がしてねこばばしたり、おつりは必ずと言っていいくらいごまかすそう…
それが当たり前で、切手一枚剥がして売れば、貧しい家族だったらそれで一日暮らせるからだって。

うちの従業員たちも最初はそうだったけど、日本人との間に信頼関係が生まれて、だんだん心が通じ合うようになって行ったんだよ。



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借家とタビー君2 借家の庭と牛

(左) 右が社宅として会社が借りた一軒家で、左が大屋さんの家 
(右) 時々放浪牛が庭に散歩に



窓のリス 私の部屋の窓に巣を作っていた
 リスの赤ちゃん。

 帰国の頃にはもう大きくなって
 庭をかけ回っていた。










料理人ドレイ  料理人、ラージャ
 ビルマ人の彼は仏教徒で菜
 食主義者。
 穏やかで目がとても澄んで
 いた。日本人に合うお料理
 を作ってくれる。






彼は戦時中、ビルマで日本の憲兵隊の料理人をしていたんだって。
「みんな長いナイフ(刀)を持っていたなあ。
日本へ帰る時、私を呼んだので怖くなったが、しずしず行ってみたら、みんなで私を胴上げした」

私たちがおむすびを作っているのを見て彼は、
「ああ、見たことがある。ビルマで直撃爆弾の降る中で、子どもを失った日本人の母親たちが泣きながらこのライスボールを作っていた」って話してくれた。




マドラス美術館

私のお気に入りのひとつ、マドラス美術館


マドラス美術館と私たちの専属運転手  
 手前は会社の車とお抱え
 運転手。
 
 車はインドの高級国産車、
 アンバサダー。






マドラス風景

ここもまた別の 好きなスポットかな


工場の屋上で

工場の屋上より

(上)工場のあるビルの屋上で。 
ここにいると、日本では色黒の私も、「ひょっとして私は白人かも…」 って錯覚に陥る。
屋上の隅には貧しい一家族が住んでいた。

(下)屋上からの眺め。手前はビルを壊した跡だけど、貧しい人たちが来て、売るためにレンガの破片までかき集めて行ったそうで、何も残っていない。



ふやけた手 あまりの暑さにふやけて、あせ
 もでしもやけみたいに
 ただれてしまった手のひら。

 汗の塩分で、痛がゆい。




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(次号に続く)